発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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日本ではあまり有名ではない人。ウィニコッとの弟子で、独立学派に属する精神分析家である。もともとは英米文学などを専攻して、精神分析の世界にやってきたらしい。アメリカでは医学と結びついているので、このようなことはほとんどないが、イギリスでは文学などとの結びつきがつよいため、しばしばこのようなことがあるらしい。

本書はそのような文学畑出身の著者によって書かれたからか、詩的で、かつ難解なところがあるように思う。さらには症例・事例がほとんどないので、極端に抽象的な議論になってしまっている。そこが本書のとっかかりにくいところであると思われる。

精神分析に限らず、専門分野で長く仕事をしていると知識や技術が増えていき、それは次第に権威と結びつく傾向がある。しかし、精神分析は権威の中で行われる営為ではない。そのため、そこに副題にあるように専門性のパラドクスに陥ることが多々ある。そこにはさまざまな理由があるが、著者はその一つに恐れを挙げている。恐れがあるからこそ、権威を身にまとうことで防衛するということである。それは精神分析の本質である、真実と出会うということからすると反対のことをしてしまっているということになろう。



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ベティ・ジョセフのこれまで発表された論文をまとめたもの。彼女は1917年に生まれ、昨年の2013年に亡くなられた。享年96歳で、死の直前まで後進の指導を現役でしていたという。老いてますます盛んなのは中国においては黄忠だけど、イギリスでは彼女であろう。

彼女はクライン派であり、here and nowを極めて強く重視している。過去の再構成については一部の論文を除いては、ほとんど言及されておらず、現在の転移を軸にして、まさに「今を生きる」ということを一番の治療機序においているようである。そして、それがタイトルにもなっている心的変化を引き起こす原動力になると主張する。しかし、患者は心的に変化することに対しては強い抵抗を示すのである。なぜなら、変化するということは、良いものであれ悪いものであれ、今までの自分とは違ったものになる、つまり死ぬことだからである。それは強い不安を惹起するのであろう。そのため、患者は表面的には分析に乗り気であったり、変化を期待するようなことを言うが、実際にはその逆のことをすることは多々あるということである。その面を含みこんで分析の中で扱っていかねばならないことを彼女は本書の様々な論文で論じている。



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オグデンはアメリカ東海岸に拠点を置く精神分析家・訓練分析家でいわゆる独立学派に位置付けることができると思われる。彼はイギリスで訓練を受け、その時にクライン学派や対象関係論に強く影響を受けたようである。

本書の前半部分では人間の精神・心の生物学的基盤・遺伝コードは何なのかについて議論しており、そこではヴィゴツキーの深部構造を参照しつつ、探究している。フロイトやクラインが探究した生物学的基盤とはまた違った面白味があるように感じる。

さらに中盤から後半にかけてはクライン・ビオン・ウィニコット・フェアバーンといった分析家を参照しつつ、クライン学派と対象関係論学派の「弁証法的対話」により、その異動を論じ、理論を結び付けようとしている。

本書ではまだ登場はしていないが、オグデンはその後、自閉隣接ポジションや分析の第三主体などの着想を編み出し、深めていくようになる。



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フロイト-クラインの発達論を改訂するというチャレンジングな内容。クラインは抑うつポジションに先立つ心の在り方として妄想分裂ポジションをおいた。しかし、メルツァーはそれを逆転させ、まず抑うつポジションを人生の早期の在り方として置いた。乳児は母親やその乳房に出会い、その美しさに圧倒され、葛藤を起こし、抑うつ的になる状況を想定した。このことは、臨床素材、とくに夢の中にその臨床状況が明らかになる様を本書で描写した。また共著者のメグによって文学芸術の中でのそのあらわれについても描写した。

精神分析はこのように発達論をフロイト以降も改訂に改訂を重ねてきている。メルツァーの他にもオグデンは妄想分裂ポジションに先立つ在り方として、自閉隣接ポジションを置いた。これによって自閉症や発達障害の理解を深めていったといえるだろう。



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精神分析において夢は重要な意味を持っている。それはフロイトの時代と現代とでは多少違ってはいるが。フロイトの頃は夢の内容を分析・解析していくことにより、そこに無意識的な葛藤やコンプレックスが姿を現すとしていた。そしてそれを意識化していくことで症状が改善するとしていたのである。こんなにも単純ではないが、あえて単純化するとこういう感じである。

しかし、現代ではその夢の扱い方やその意味は違ってきている。その一つがここでメルツァーが述べていることである。夢の内容ももちろん大切ではあるが、それよりも夢を夢見ることができるようになることこそが大切であるとしている。またこの夢見るは睡眠中に見る夢に限定しているのではない。ビオンのもの思いと関連し、自由に思考し、心にスペースを持てるようになることに近い話なのである。

夢を生きることができるようになることが求められるのかもしれない。



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クラインとビオンのいくつかの重要概念について、現代的な視点から、現代の分析家が論考しなおしたもの。また、すべての章において、症例とセットで論じられており、その実際の現れ方を具体的に知ることができる。その症例も豊かに描かれているので、本文にもあるように良質の症例集として見ていくことも可能のようである。

こうしてみると精神分析というのは臨床や実践と密に結びついたものであると今更ながら思う。そういう意味で、単に学問として学んだり、テキストだけからふれても、精神分析の本質には触れえないだろう。精神分析愛好家・精神分析思想家に堕してはならない。



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認知行動療法を用いて不眠症を改善するためのマニュアル本。専門家だけではなく、一般ユーザーでも読みやすく、理解しやすいようになっている。

不眠になる原因や要因を説明し、実際の改善のための手続きである睡眠衛生教育、睡眠調整法、筋弛緩法などについて分かりやすく解説している。また後半では、実際の不眠症の事例を多数列挙し、具体的にはどういう介入をしているのかを例示している。

不眠を改善するたけで、うつ病なども結果的に改善するようになったりすることも研究で確かめられているようだし、身体疾患による不眠に対しても効果があるようで、今後の発展が楽しみなところである。

ただ、不眠症だけではないが、認知行動療法をすればたちどころに全てが治る!というものではなく、効果もあれば限界もある。さらには、認知行動療法を施行すると、患者はその分、練習や宿題などをこなしていかないといけないので、その分の負担もあるし、それゆえに脱落することもある。
こういうところをしっかりとアナウンスしなければ、不必要に失望することにつながるだろう。



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ウィニコットの入門書。ウィニコットの生い立ちから基礎理論をしっかりとおさらいすることができる。さらには5本の主要論文を概説している。ウィニコットには600篇以上の論文や講演録があるようで、それ全てを網羅することはとても大変である。また書き方は日常用語に近いもので、一見読みやすいものであるが、含蓄深いものが多く、読めば読むほど味が出てくるように思う。

この著書でウィニコットの概要を知った上で、実際のウィニコットの論文を読み進めていくと、分かりやすいかもしれない。ただ、この著書だけでウィニコットを理解した気になるのはとても危険かもしれない。というのも、ウィニコットもそうであるが、精神分析のそれぞれの論文はそこに知識を得るために読むものではなく、読むという行為を通して、著者と対話し、自分なりの精神分析を深めていく作業である。なので、この著書だけで満足するのではなく、原典を当たることが望まれる。



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メルツァーの「精神分析過程」に続く二つ目の著作である。人間の性発達を自我構造の観点からとらえ直し、精神分析における性理論を全面的に改訂している意欲的なものである。

メルツァーはクライン派の分析家であるが、後にクライン派からは離れていった人物であり、その理論は難解な上、独自の造語的な用語を多用しているので、理解しづらいところがあるように思う。この著書も多分にそういうところがあり、なかなか理解しづらい。



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著者のこれまで発表した論文をまとめた論文集。ウィニコットから始まり、日本語臨床、日本文化論にまで至る、日本独自の精神分析を目指しているように思われる。

タイトルは一見すると何のことを言っているのかが分からないが、よくよく中身を読み進めていくと、確かに臨床では、特に精神分析では黒か白か、善か悪か、良いか悪いか、前か後ろか、など二分法では決めにくいものがある。また同じ事象を捉えていたとしても、人によってまるでその判断や評価が違ってくることもあるだろう。そうした決めきれないところに臨床の意味や意義が見出されていくということなのかもしれない。

またいくつかの症例も掲載されているが、その著者の解釈のあり方や姿勢について、言葉の芸術家らしく、含みやウィットに富んでいるように思われる。堅苦しいお仕着せの精神分析的な用語以上の、著者自身の人間らしさが見えてくるように思もう。また、その言葉には演繹的に何かを決めつけるものではなく、その今ここでの患者に即したものをそっと置くような、そのような繊細な感じもある。そうはいっても、著者自身も関係の中で揺れ動き、時には感情的にもなっているようであるが、そこにもまたパーソナルな出会いが表現されているようにも思われる。


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