発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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フロイトは生涯で膨大な数の論文・エッセイを発表しており、それは世界各国で訳されている。数年前に岩波からフロイト訳の全集が出ているが、22~23巻にもなっている。その全てを読むのは、有意義ではあるが非常に骨の折れる作業でもある。また、一つ一つの論文の内容を理解するためには、その前後やつながり、後世の発展との関連性を踏まえることで、その理解には深みが増す。

本書はフロイトの論文の要約や紹介という側面もあるが、フロイトの論文を個々それぞれで読み進めていく上でのガイドという役割もあるだろう。本書では、53の論文が取り上げられている。それぞれの論文の背景やその時の情勢、人物関連、その後の発展といったことの解説が付け加えられており、理解する上での参考が非常に多く提示されている。そのような構成により、フロイトの論文・エッセイへ接近するハードルを低く感じさせられる。

ただし、本書を読むことで非常にわかりやすくなるが、それだけで終わることは片手落ちだろう。やはり、ホンモノはホンモノに当たらないといけない。つまり、フロイトの原著を読むことだろう。原著はドイツ語だが、SEという英語版もある。日本語でも読める。こうしたところにあたるための準備運動として本書を利用するのが良かろうと思われる。



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ジェンダーやセクシャリティに関する書籍はいろいろと出ているが、その心理支援に特化した書籍はこれまでになく、その意味でオリジナリティがあると言える。

セクシャルマイノリティーは社会的な圧迫や無理解による差別が多く、そうしたことを背景にメンタルヘルスを崩してしまうことが一般よりも多いといわれている。また、性別適合をする上で様々な課題があり、それについての心理支援だけではなく、包括的な支援も必要とされるので、心理学の知識以外にも生物学的・医学的・社会学的な知識も必要となってくる。

本書を執筆している著者陣は大学で研究しているだけではなく、実際の臨床現場で日々セクシャルマイノリティーに接しているいわば実践家によって書かれている。そのため、非常にリアリティのある内容となっており、これからの自分の臨床に実践力として役に立つものと思われる。特にホモフォビアといわれる治療者の中にも気付かない意識があることが多いことも指摘しており、セクシャルマイノリティーに関わる臨床をする上では、そうしたことを治療者自身も振り返り、把握しておかねばならないというのは大変説得力のある議論であると思われる。それは何もセクシャルマイノリティーに関わる治療者だけではないだろうが、自分の振り返りというのは常に必要なことかもしれない。

ちなみに本書ではセクシャリティではなく「セクシュアリティ」という用語で統一されている。些細なところかもしれないが。



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日本ではあまり有名ではない人。ウィニコッとの弟子で、独立学派に属する精神分析家である。もともとは英米文学などを専攻して、精神分析の世界にやってきたらしい。アメリカでは医学と結びついているので、このようなことはほとんどないが、イギリスでは文学などとの結びつきがつよいため、しばしばこのようなことがあるらしい。

本書はそのような文学畑出身の著者によって書かれたからか、詩的で、かつ難解なところがあるように思う。さらには症例・事例がほとんどないので、極端に抽象的な議論になってしまっている。そこが本書のとっかかりにくいところであると思われる。

精神分析に限らず、専門分野で長く仕事をしていると知識や技術が増えていき、それは次第に権威と結びつく傾向がある。しかし、精神分析は権威の中で行われる営為ではない。そのため、そこに副題にあるように専門性のパラドクスに陥ることが多々ある。そこにはさまざまな理由があるが、著者はその一つに恐れを挙げている。恐れがあるからこそ、権威を身にまとうことで防衛するということである。それは精神分析の本質である、真実と出会うということからすると反対のことをしてしまっているということになろう。



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ベティ・ジョセフのこれまで発表された論文をまとめたもの。彼女は1917年に生まれ、昨年の2013年に亡くなられた。享年96歳で、死の直前まで後進の指導を現役でしていたという。老いてますます盛んなのは中国においては黄忠だけど、イギリスでは彼女であろう。

彼女はクライン派であり、here and nowを極めて強く重視している。過去の再構成については一部の論文を除いては、ほとんど言及されておらず、現在の転移を軸にして、まさに「今を生きる」ということを一番の治療機序においているようである。そして、それがタイトルにもなっている心的変化を引き起こす原動力になると主張する。しかし、患者は心的に変化することに対しては強い抵抗を示すのである。なぜなら、変化するということは、良いものであれ悪いものであれ、今までの自分とは違ったものになる、つまり死ぬことだからである。それは強い不安を惹起するのであろう。そのため、患者は表面的には分析に乗り気であったり、変化を期待するようなことを言うが、実際にはその逆のことをすることは多々あるということである。その面を含みこんで分析の中で扱っていかねばならないことを彼女は本書の様々な論文で論じている。



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オグデンはアメリカ東海岸に拠点を置く精神分析家・訓練分析家でいわゆる独立学派に位置付けることができると思われる。彼はイギリスで訓練を受け、その時にクライン学派や対象関係論に強く影響を受けたようである。

本書の前半部分では人間の精神・心の生物学的基盤・遺伝コードは何なのかについて議論しており、そこではヴィゴツキーの深部構造を参照しつつ、探究している。フロイトやクラインが探究した生物学的基盤とはまた違った面白味があるように感じる。

さらに中盤から後半にかけてはクライン・ビオン・ウィニコット・フェアバーンといった分析家を参照しつつ、クライン学派と対象関係論学派の「弁証法的対話」により、その異動を論じ、理論を結び付けようとしている。

本書ではまだ登場はしていないが、オグデンはその後、自閉隣接ポジションや分析の第三主体などの着想を編み出し、深めていくようになる。



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フロイト-クラインの発達論を改訂するというチャレンジングな内容。クラインは抑うつポジションに先立つ心の在り方として妄想分裂ポジションをおいた。しかし、メルツァーはそれを逆転させ、まず抑うつポジションを人生の早期の在り方として置いた。乳児は母親やその乳房に出会い、その美しさに圧倒され、葛藤を起こし、抑うつ的になる状況を想定した。このことは、臨床素材、とくに夢の中にその臨床状況が明らかになる様を本書で描写した。また共著者のメグによって文学芸術の中でのそのあらわれについても描写した。

精神分析はこのように発達論をフロイト以降も改訂に改訂を重ねてきている。メルツァーの他にもオグデンは妄想分裂ポジションに先立つ在り方として、自閉隣接ポジションを置いた。これによって自閉症や発達障害の理解を深めていったといえるだろう。



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本書は著者のこれまでに発表した論文をまとめた論文集である。また、これらが博士論文ともなっている。

精神分析や対象関係論は精神科医による実践が多いように思われるが、サイコロジストの観点から、特に精神科臨床の中でどのように実践するのかを焦点にしている。精神分析は週複数回のセッションをもつことが求められるし、それがスタンダードではある。しかし、日本の中でそうした設定はなかなか難しいところがある。そのため週1回の設定ができたら良い方で、ケースによってはそれも難しい時があったりする。そのような状況の中で週1回という設定であっても対象関係論や精神分析をどのように実践するのかを明確に打ち出しているのが本書であり、そうした意味においてサイコロジストにとっては取っ付きやすいものであると思われる。

また、著者はクライン派に属するセラピストである。クライン派といえば攻撃性や破壊性を解釈の中心に添えるのがスタンダードであるが、著者はその裏側にある哀しみと痛みに目を向ける姿勢を取っており、その意味で独立学派に近いものを感じさせる。解釈もその哀しみや痛みに向けられたものが多く、患者はそれを抱えれるように援助するのが、著者の姿勢であると思われる。

本書を読んでいた時期は私にとっても、現実がなかなか上手く行かず、時として被害的になったり、絶望的になったりして、いわゆるPSポジションになっていた。そこには本書で示されているような哀しみや痛みを心に据え置くことができていなかったのかもしれない。しかし、本書を読みつつ、その裏にある痛みを私自身は目を向けることができるようになり、有る意味では少なからず救われたように思う。この痛みを感じるよりも被害的になっていたほうが楽であるとも思えるが、そこには自分を無くしてしまう苦しさもあるのかもしれない。それを体験させてくれるような書籍である。



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精神分析において夢は重要な意味を持っている。それはフロイトの時代と現代とでは多少違ってはいるが。フロイトの頃は夢の内容を分析・解析していくことにより、そこに無意識的な葛藤やコンプレックスが姿を現すとしていた。そしてそれを意識化していくことで症状が改善するとしていたのである。こんなにも単純ではないが、あえて単純化するとこういう感じである。

しかし、現代ではその夢の扱い方やその意味は違ってきている。その一つがここでメルツァーが述べていることである。夢の内容ももちろん大切ではあるが、それよりも夢を夢見ることができるようになることこそが大切であるとしている。またこの夢見るは睡眠中に見る夢に限定しているのではない。ビオンのもの思いと関連し、自由に思考し、心にスペースを持てるようになることに近い話なのである。

夢を生きることができるようになることが求められるのかもしれない。



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クラインとビオンのいくつかの重要概念について、現代的な視点から、現代の分析家が論考しなおしたもの。また、すべての章において、症例とセットで論じられており、その実際の現れ方を具体的に知ることができる。その症例も豊かに描かれているので、本文にもあるように良質の症例集として見ていくことも可能のようである。

こうしてみると精神分析というのは臨床や実践と密に結びついたものであると今更ながら思う。そういう意味で、単に学問として学んだり、テキストだけからふれても、精神分析の本質には触れえないだろう。精神分析愛好家・精神分析思想家に堕してはならない。



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タイトルのドイツ語では、das trauma der geburtとなり、以前は出産外傷と訳されてもいた。しかし、これだと出産する母体が傷つくようなニュアンスがあるので、出生外傷の方が近い。出生外傷という言葉はあまりにも有名だけど、でも今までその訳本がなかったのは不思議に思える。短期療法の先駆けとなった反面、精神分析から破門されたという歴史があるからか。フェレンツィのように発禁扱いレベルかもしれない。

第1章ではフロイトの父親軽視を超えて、母親との関係重視を記している。この一つの原型が母親との分離、即ち出生であり、それが外傷になるとのこと。すると出生外傷は象徴レベルの話では分離不安となり、具象レベルでは身体言語を使い、出生外傷ということができるか。そして、この出生外傷が人間の根本のところにあり、それを明確に目的的に扱うことにより、治療を短期で終わらせることができるとランクは主張している。あまりにも有名な論点が既に1章から展開してる。

ランクは子どもの様々な不安は出生外傷の置き換えであるという。これらを遺伝的要因から説明することは不適切としている。子どもにとっての第1の外傷はもちろん出生である。第2の外傷は離乳、第3の外傷は去勢としている。

第2章では、母体回帰空想について論じられている。死ぬことも母体回帰であり、憧れとなる。一方でやはり死ぬことは恐怖の対象でもあるのは、出生における外傷の反復を惹起させるからかもしれない。「性的結合において頂点に達する性愛とは、母親と子どもとの間の原状況の部分的再建に向けた際立った試みだということが分かる」とランクは述べる。

第4章では、人間の様々な神経症症状や精神病症状の原型はほとんが出生外傷に行き当たるとしている。いずれもフロイト流の症状による象徴言語的な解釈から導き出されているようだが。1920年代という時代を感じさせる。

第5章。文化的営み、宗教的儀式、神話等はほとんどが母体回帰空想や出生外傷を象徴的に表したものであるとランクは述べる。ここでは日本の天皇制にまで言及されていた。ランクは宗教、文化、神話、芸術は出生状況のことが表現されているとしている。この出生状況をエディプス状況に変えるとフロイトと言っていることはさほど変わらない。そういう意味でランクの論点は二番煎じ的であり、正直あまりワクワクしない。第9章では、哲学のこれまでの歴史の中で、出生外傷を原点として、思索がなされてきたことを示している。さらに第10章では精神分析的思索の中に出生外傷の概念を入れ込もうとしている。そういう意味ではランクの野心が伺える。

ランクは原外傷である出生状況さえ分析的に扱えば良くて、その他のことを扱っても無意味であると言い切る。そして、「分析の期間中、転移とその解消の中で、出生外傷を反復させ、理解させること、そして分析家からの切り離しの際には患者に出生外傷を反復させないこと」が必要であるとのこと。

分析治療は開始当初から終結に向かって進んでいく。これはすなわち最初から分離、出生状況を目しているということのようである。その過程で先ほどのような出生状況や出生外傷を扱うことが必要であり、その他の例えばエディプス状況などは副次的なものであるとしている。そういう意味で体験重視もいうよりはかなり操作的な印象を受ける。

解題に進む。ランクは元々、ローゼンフェルトという姓だったとのこと。しかし、後に戯曲「人形の家」のランク医師から名前を取り、19歳でランクと名乗るようになった。そして、25歳の時に戸籍変更をしている。これは暴力的な父親との葛藤が背景にあるのだろう。そして、ランクのフロイトに対して熱烈な敬愛ぶりであった。その姿はカルト宗教的とも思えるほどのようだ。そこまで入れ込めるというのはある意味では羨ましい。

またランクの出生外傷の発案によって精神分析から離反していった、というのがよく聞く話である。しかし、実際には出生外傷という着想が精神分析には受け入れられなかったから、というだけではないようである。というのもフロイト自身が当初は全面的ではないとはいえ出生外傷を認めていたから。それよりもジョーンズやアブラハムなどの兄弟弟子との軋轢も大きかったようだ。

ランクはフロイト以後の流れである父親より母親、エディプスよりプレエディプスをいち早く重視していた。このことからラドニツキィという分析家は「ランクは実質的にクライニアンであった」とまで言っているようだ。


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