発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 精神分析の終結のための基準について(精神分析 臨床心理 心理療法)
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メラニー・クライン(著) 「精神分析の終結のための基準について」 1950年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp55-60

 何事にも終わりというものはあり、それは精神分析と言えども例外ではない。クラインはこれまでの経験からクラインなりの終結の基準について本論文で述べている。簡単に要約すると、迫害不安と抑うつ不安が緩和され、自我の安定性と現実感が増大し、幻想生活と情緒を自由に体験する能力を得て、さらには喪の仕事が果たされること、を挙げている。本論文は6ページほどの短いもので、特に込み入った議論をすることもなく、クラインの考えを提示しているだけといった感じである。

 精神分析の終結というと真っ先に思い浮かべるのがフロイトの1939年「終わりある分析と終わりなき分析」である。フロイトは初期には精神分析が万能の方法であるといった多少マニックな考えを持っていた。しかし、さまざまな思想の変遷を経て、徐々に自分自身の死が近づくにつれ、精神分析の限界を考えるようになったようである。その中で生み出されたのがこの論文である。ここでは精神分析の限界などについて書かれており、多少抑うつ的なトーンに彩られている。精神分析は本当に役に立つのか?といった議論まで延々とされている。

 このフロイトの精神分析の終結についての延々と議論をし、自問自答し、限界があるのではないかといった結論を導き出しているところと、このクラインの「精神分析の終結のための基準について」に書かれている楽観論とを比較すると大きな開きが感じられる。誤解を恐れずに言えば、クラインの論文は軽い感じなのである

 しかし、僕もそんな偉そうなことをいえる立場ではなく、実際的に精神分析をきちんと終結に持っていったケースなどは本当に数少ない。ほとんどが中断したり、そこそこのところで終了となったりすることが多い。もちろん、だからといってそれらが全然ダメと卑下することもしないが、満足しているともまた言えない。終結は単なる時間の区切りであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのかもしれない。中断・終了・終結は単に終わり方を分類しただけであり、その本質はもっと別のところにあるようにも思う。もっと言えば、終わり方はその人のありようの一部であり、それこそが分析の対象にもなるのかもしれない。


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