発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 こころの退避(精神分析 臨床心理 心理療法)
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 フロイトのフェティシズム論の延長線上にあり、参考になるのでというアドヴァイスを受けたので、読んでみました。クライン理論・対象関係論についての知識もあまりない中で読んだので、不十分にしか理解できていなかったり、よく分からないところが多々あったように思います。

 僕の理解したところで言えば、妄想分裂ポジションと抑うつポジションとの中間に、様々な葛藤や痛みから心を防衛するために構築されたものを病理的組織化と言い、主に否認や倒錯などのメカニズムなどから成っているというところでしょうか。

 理論的なところはほとんど理解できなかったけど、症例がたくさん提示されており、全く同じではないものの、似たような症状や行動を示す患者を今までに受け持ったことはあるなとは思いました。確かにそれらの患者に対する対応はとても大変だったですし、あれらを理論的に記述すると心的退避・病理的組織化ということが可能なのかなとは思います。

 フェティシズムの関連から書くと、分かっているのに分からない振りをする、知っているのに知らない振りをする、見ているのに見ていない振りをする、という否認の機制と似たようなものとして確かに理解できそうだなと思いました。これらをつきつめていくと精神病的なあり方と、神経症的なあり方の両方が同時にあらわれているということであり、どのようにして理解すれば良いのかというヒントはもらえたように思います。

 ただ、11章の技法上の問題の中で取り扱われている、「患者中心の解釈」と「分析家中心の解釈」の違いがあまりよく分かりませんでした。言わんとすることや大雑把な違いは分かるけど、使いどころの違いや、メカニズムの違い、効果の違いについては十分に理解できずに終わった感じです。

 僕にとってはかなり高度で難解な書籍だったので、またレベルアップしてから、何年後かに再度チャレンジしてみたいです。


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コメント
この記事へのコメント
ピュアリーさん、どうも。
患者中心の解釈と、分析家中心の解釈はなかなか面白いと思います。あれは、多分、ウィニコットを下敷きにして論じ挙げられた技法だと思う。

で、違いだけれど、結局、この2つの解釈の違いは、今分析状況に生じている不安やある種の情緒的雰囲気が、患者を動因として生じたのか、分析家を動因として生じたのかを区分けすることだろうと思います。

それは結局、分析状況における「責任の所在」という問題になってくるのだろうと思います。ある種の「責任」を抱えることが可能な患者には、通常通り、患者中心の解釈になるのだろうし、「責任」を抱えることができず、解釈自体を侵襲として体験する患者は、分析家中心の解釈が必要なのだろうと思います。ただ、分析家中心の解釈を多用すると、今度は、患者は「この分析家は自分のことにしか関心がない」と感じる。だから、バランスが大事。

この技法の違いを区別することの意義は、重篤な人格障害の方と分析的なセッションを持つと本当によく分かります。
2008/05/21(水) 22:42 | URL | のん # - [ 編集する]

おお!この本、日本語訳されているんですね。自分も同じものを持っています。Steinerは現代クラニアンの代表格的な分析家とされているだけあって、論調がとても心地いいです。好きな分析家の一人です。
2008/05/22(木) 11:16 | URL | Hans # g6vs/Cb2 [ 編集する]

11章に関して、一つ。

自分がこのSteinerに最初に惹かれたのは、彼の論がModern psychoanalysisに非常に似通っているなと思っていたからなのですが、論文をいくつか読んでいくうちに、結構違うなと思うようになりました。それでも論の展開の仕方は面白いので、好んで読んでます。この辺りの流れに絡めて11章に関して思うことを。

非常に退行した患者さんとどう接するかということに関しては、ホールディング(ウィニコット)、コンテイニング(ビオン)、ジョイニング(スポトニッツ)、ミラーリング(コフート)と似たような論が展開されてきましたが、これらの大きな違いの一つは、前者の二つが「概念」なのに対して、後者の二つは「技法」というところなんですね。

ModernとSelfの二つは共に自己愛にを中心に発展した学派なので、おそらく、退行した患者の万能的な世界をどう侵害することなく関わるかという方法はすでに50年前にできていたんですね。が、その意味では、対象関係論は遅れた感があります。クラニアンにしろ、独立学派にしろ、理論はどんどん洗練されていったのですが、それに追いつくだけの技法が発展してこなかったんですね。

なので、Steinerのこの技法論は、初めて読んだとき、新鮮でした。クラニアンの中で技法論が展開されていると。このanalyst-centred interpretationというのは、ホールディングやコンテイニングといった”概念”をどう具体的に分析の中で遂行するかということだと思うのですが、この遂行方法の内容、のんさんが上で書かれている通りだと思います。

分析家が「理解させよう」として言葉を使う(解釈をする)と、「理解してもらおう」として言葉を使う患者にとってはそれが「頼るな。自分で考えろ」と言われいているように聞こえる。これが患者の傷つきになる。この点、納得です。この感覚や言葉のやり取りをコンテイニングで説明している辺りが、この論の面白いところかなとも思ったりしています。

が、

ピュアリーさんが「違いがよく分からない」というのもなんとなく分かる気がするんです。僕の疑問と同じかどうか分かりませんが、

僕的には、どう言おうと(「分析家のせいだよね」と付け加えようと)、結局、「だから、あなたは○○なんだね」と判断的・説明的な要素が入っていることには変わりがないと思うんですよね。この差に敏感に反応できる人というのは、僕からするとかなり精神機能が高い気がします。少なくともSteinerが対象としている「過度に引きこもった患者」よりは高い精神機能をもった人でないと難しいのではないかと。

日本語でどのように訳されているか分からないですが、英語の方では、「You」と「I」という言葉が解釈の例で使われているんですね。自己愛的・万能的な世界には「I」しかないので、ここで「You」が出てくると、結局それは侵害になってしまうのではないかと。

これがこの章を読んだときの、率直な印象でした。
2008/05/24(土) 23:41 | URL | Hans # g6vs/Cb2 [ 編集する]

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