発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 精神分析への最後の貢献-フェレンツィ後期著作集-(精神分析 臨床心理 心理療法)
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 あとがきで詳しく書かれているが、フェレンツィの後期の技法論文を中心にして編纂されている。そして、最後の一論文はフェレンツィの一番弟子であるマイケル=バリントの「外傷と対象関係」が載せられている。異色といえば異色だが、フェレンツィの外傷論の延長として現代的な発展が見られるので、違和感なく読めると思う。

 臨床日記の感想文でも書いたことと重複するが、フェレンツィのフロイトに対する意識はとても強く、まさに「父を越えよう」として奮闘しているように思う。それがこの著作集でも感じられる。技法面でフロイトを乗り越えようとして工夫されたのが、積極技法と弛緩技法である。

 これらの二つの技法を使うということはフロイトの自由連想の否定であるとも言える。ただ、フェレンツィは素材の分析の為に効果的なことなので精神分析の発展であると言っている。積極技法の一部は分析には役立たない素材が出てくるとも言及しているようなところもあったが。

 自由連想の否定が精神分析の否定につながるのかどうかは分からないが、自由連想というものが一体何なのか?について色々と考えさせられるところもある。そして、これらの一部は対人関係論のdetail inquiryなどにも繋がっていっているのかもしれない。もっと言うと、フロイトの夢分析の手法は要素に分解し、一つ一つの連想を確かめていく手続きをとっており、これも厳密には自由連想ではないと捉えることも可能かもしれない。それらとの関連からフェレンンツィが「自由連想自体が防衛として使われる」とどこかに書いていたが、これも確かにうなずけるところもある。

 そして、論文ではないが「断片と覚書」で、分析臨床についての着想をフェレンツィは書き綴っている。この形式は臨床日記でとられているものと同じであるが、起承転結がなく、詳しい説明もなく、思ったことをそのまま書いているので、あまりうまく理解できないところもあった。自分自身がもう少し臨床経験を積んでいけば理解していけるのかもしれないが。

 ここに収録されている論文のほかにも色々とあるようだが、今後訳出しされ、出版されるのかは難しいところのようである。「性理論の試み(タラッサ)」というのが一つだけ訳されているということなので、それはまたいつか読んでみたいと思う。


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コメント
この記事へのコメント
日本語でフェレンチィを楽しめるのは羨ましいです。英語は、今はあまり使われない単語や表現が多くてとても読みにくいです。

自由連想、考えさせられますよね。自由連想とそれに対する抵抗と、その抵抗を解決するための解釈。密接に関わっているだけに、どれかが変化すると他の要素も変化していくので、随分違った分析の流れになるかと思います。

そういう意味ではクラニアンは明らかに抵抗や解釈の意味がフロイディアンと異なっているので、セーイチさん的には「自由連想が防衛として使われる」という感覚、ピッタリくるのではないでしょうか。
2008/04/19(土) 19:29 | URL | Hans # g6vs/Cb2 [ 編集する]

セーイチさん、HANSさん、どうも。
フェレンツィはやっぱり、外傷に取り組んだ人、というイメージがあります。

分析家の治療行為が時に外傷の再演の舞台となるということを一番最初に言い始めた人なのかなと思っています。違うのかもしれないけれど。

そして、フェレンツィを最も受け継いでいるのは、個人的にはパトリック・ケースメントだと思っていますが、悲しいかな、ケースメントの著作にはフェレンツィのことは1つも引用されていません。

僕の中でフェレンツィは悲しいほどに臨床家であり、そして、悲劇の人だったという印象です。
2008/04/20(日) 01:25 | URL | のん # - [ 編集する]

>自由連想

フロイトの頃は自由連想が精神分析の必要条件の一つだったんでしょう。でも、必要条件かどうかも分からないということになってくると、精神分析とは何か?という問題にまだ発展しそうです。

まー、現状でも、精神分析と名はつくけど、自我心理学と対象関係論とでも全く違うもので、同じ括りにするのもどうかと思うぐらいまで違ってきてますからね。

>悲劇

精神分析をする人は多かれ少なかれ悲劇の部分があるのかも。ピストル自殺をした人、破門されて独自の道を行かざるを得なくなった人、発症したりした人、様々ですね。

というか、精神分析の道にはまってしまう事そのものが悲劇だったりして(笑)
2008/04/23(水) 13:42 | URL | ピュアリー # 6fwIY24o [ 編集する]

>というか、精神分析の道にはまってしまう事そのものが悲劇だったりして(笑)

脅かさないでくださいΣ(; ̄ー ̄;A
2008/04/23(水) 14:59 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

自分のブログの方でも少し書きましたが、精神分析が"Talking Cure"ということを掲げているのは学派を問わずだと思うんですよね。ただ、そのプロセスとそこへの介入は随分異なってきますよね。

フロイトや自我心理学派が仮定する無意識の構造と、他学派が仮定するものは随分異なりますからね。同じ言葉を使っていても、その定義は多岐に渡るので、「心に浮かんだものを話すのを許す」という意味であれば、自由連想は必須条件かもしれませんが、「心に浮かんだことを話すように強要する」という意味では必ずしも条件とは言えないかもしれないですね。フロイト以降、精神分析は自由連想に耐えられるほどの自我をもっていない患者を多く観てきているので。

自由連想(テーマに縛られない話)、抵抗、転移・逆転移、これを取り扱うものが精神分析ですかね。
2008/04/23(水) 20:57 | URL | Hans # g6vs/Cb2 [ 編集する]

そうなると児童分析はどうなるのか?って話にも発展しそうで、転移/逆転移というのはあるにしても、自由連想はないし。

クラインは「自由連想は子どもの遊びに匹敵する」という逆転的な事も言っているけど、遊び=自由連想とするなら問題はないけど、これを別物としてみるとまた変わってきそうですね。

あと対人関係論のディテールインクワイアリーも精神分析なのかどうか?というのもまた疑問になってきたりします。
2008/04/25(金) 10:39 | URL | ピュアリー # 6fwIY24o [ 編集する]

そうですね、要はどうコミュニケーションをするかですが、"自由連想"とするとやっぱりうまく精神分析を定義づけられませんね。”コミュニケーション”と意味を拡大した言い方の方が適切かもしれません。

以前、別の所で書きましたが、自由連想というのは結構患者さんにとってはきついんですよね。自由連想とは、「全て話しなさい」という命令・強制なので、それに耐えきれるほどの自我を備えていなければならない。そのため、この意味合いで定義づけようとすると、ごく一部の患者さんにしか適応できなくなってしまいますね。

精神分析が焦点を当ててるのは、自由連想にしろ、他のコミュニケーション方法(例えば、Detailed Inquiryや子どもの遊び)にしろ、それそのものというよりも、それによって引き起こされた反応(抵抗)の方なので、自由連想にこだわってしまうと、前言語期の患者さんとのセッションでは問題がでてきそうですね。例えば、沈黙をコミュニケーションではなく抵抗としか見なせないなど。

自由連想が一者心理学の典型あるのに対して、Detailed Inquiryは二者心理学の典型例なので、少なくとも、精神分析はこの二つの間でコミュニケーションが行われていそうですね。 
2008/04/25(金) 19:45 | URL | Hans # g6vs/Cb2 [ 編集する]

正統ではありませんでしたが、僕は受けた経験者です。あれはきついですよ。強制されても何も出てきません。何かきっかけを作ってくれたらそこから連想していけるのに、いつも窓の外ばかり見て、「雲しか思い浮かばない・・・」抵抗・・・だったんでしょうね。分析的に見ると。僕の自覚では、「そんなもの何も浮かんでこないよ」だったのですが、こと分析者にかかると、「強い抵抗」とみなされます。が、僕は思います。自由連想を求めているあなたは、僕の無意識に果たして本当に語りかけていてくれるのかと。そうでなければ・・・超自我に、いくら「自由に連想するように」と言ったところで、無意識には届かない。そのためにラポールの期間があるのですが、僕らはそこでしくじったのかもしれません。
2008/04/26(土) 03:09 | URL | サーザ # - [ 編集する]

何も話さなくても、それはそれでいいんですよ。自由連想というものを課された時に、どう抵抗するかを手がかりに無意識を探索するのが精神分析なので、沈黙には話すことと同等に意味があるんですね。

しかし中には、抵抗でない沈黙もあって(主に前言語期の患者さんに見られるので、例えば、赤ん坊が話さないのは抵抗だからではなくて、話せないからであり、話さなくても分かってもらえるという万能的思考があるからと考えてもらえれば分かりやすいですかね)、自由連想に固執してしまうとこの辺りを捉えられなくなる可能性があると思うんですね。これを防衛・抵抗として解釈されると自己愛的な傷つきを生じさせてしまうことも多々あるので、子どもだったり、プレ・エディパルの患者さんには自由連想とは別の形のコミュニケーションを求めることがあるんです。もちろん、自由連想を求める分析家もいるので、この辺りは議論があるところですが。
2008/04/26(土) 22:15 | URL | Hans # g6vs/Cb2 [ 編集する]

超自我の中にいる僕は、自由連想をしなさいと言う分析者に協力的になり、必死に試みようとするも、言語化ができない。とにかく眼に入るものから、何かを連想しようとする。そこに抵抗の手がかりがあるのかもしれない。

僕が僕でなかったら、観察してみたい事例でした。

赤ん坊の中には、それこそ無意識の中に、伝達に対する万能的なものを持つ。それに赤ん坊が気づいていようがいまいが・・・。言語化ができない赤ん坊は、泣いて危急や要求を知らせる。そこに他者が存在しなくても、だ。それと、これは本当に僕の短絡的(?)な考えですが、動物でも人間でも、赤ん坊って可愛いですよね。あれは、自然に(無意識的に)「愛されたい」という要求の現われではないかと思います。愛されれば、世話は焼いてもらえるだろう、まだ一人では何もできないんだから、という表明。

反面、「本当にそうか?」という疑問も残る。「可愛い」と思う側は何を考えているか。そのあたりを探ってはいません。何かしてやらなければいけないという気持ちからの「可愛い」なのか、単なるVisual面での可愛さか。しかもそれだって、本来人間が持つ無意識から来ているのかもしれませんが。

赤ん坊を遺棄する親が現在多くなっているのは、そういう理由からも理解しがたいです。探るべく必要があることかもしれません。(今日はよく読みなおしました。どうか間違っていませんように・・・。)
2008/04/27(日) 01:37 | URL | サーザ # - [ 編集する]

僕は細かい学派の違いは分からないですけど、最近の学会とか研究会で色々と聞いている限り、古典的な精神分析のように「自由連想をしなければならない」というほど強い縛りはないように感じます。少なくとも日本では。

そして、自由連想が出来ないのは抵抗だ!という杓子定規でもなさそう。

もちろん自由連想の教示はするし、まずはそれをしていくけど、あとは結構柔軟になっているような気がします。

また、自由連想ができることが前提というよりも、「自由連想なんてできないものだ」というものが前提になっているような。

自由連想とは努力目標みたいなもので、自由連想ができるようになったら分析療法も終わりになるぐらい。

できないことの方が普通で、どういうところでできないのか?ということを色々と考えていくことが現代風なのかな。そこには抵抗の意味があるかもしれないし、Hansさんが書いたように能力的にできないとか、万能的になっているとか、色々かな。

そういえば、感覚的にクライン派の分析の場合、次から次へと解釈が入ってくるから、自由連想をしようとし続けることが意外と難しかったり(笑)。分析家の解釈を聞いているほうが長かったりもする(^-^;A
2008/05/02(金) 01:20 | URL | ピュアリー # 6fwIY24o [ 編集する]

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