ある患者との心理療法が数ヶ月継続しており、その中で問題となる症状はほぼ消失していた。そのことがセッションで話題となり、私は終了について提案した。
しかし、彼女は「いえ、確かに症状についてはあまり困らなくなったけど、今は親とのケンカについて困っているので、それをここで何とかしたい」と語った。そこで私と彼女とで改めて心理療法の契約更新し、治療目標と方法を設定した。
その後、しばらく心理療法は継続し、この親とのケンカについてもほぼ問題は沈静化した。ここで、私は再び終了について取り上げた。しかし、彼女は前回同様、また違う問題を持ち出してきて、さらになる心理療法の継続を希望した。
私は確かにその問題に困っている彼女の気持ちが分かる反面、非常に寄りかかられている圧迫感をも感じていたので、<あなたは私はこの心理療法がなくなることがとても不安で、一人ぼっちにさせられているように感じてしまうのでしょう。それは親とケンカをしてまでも守りたかったものなのでしょう>と解釈をした。
それに対して彼女は弟が生まれる時に一人で家に留守番をさせられていた思い出を想起し、「確かにこの心理療法がなくなるのが怖い」と語り、中断・終了できないことに彼女の分離不安という病理が表現されていたことが私と彼女とで共有できた。
この事例はもちろん架空のものですが、分離不安による中断・終了を先延ばしされていたというのは僕の臨床体験です。
一般的などうかは分かりませんが、学会や研究会では問題を残しつつ終了したり、中断したりした事例について「失敗」という風に烙印を押されてしまう傾向があるように思います。心理療法は継続することこそが「良い治療である」と思われがちであると思います。
しかし、ただ単に継続することによってそこに隠された病理を浮き彫りにさせることが出来ず、治療者−患者の隠蔽工作的コミュニケーションによって病理を扱わないという共謀関係を築いていることもあります。
特に保険などの低料金や、公的機関による無料による心理療法ではこういうことが比較的起き易いのではないかと思います。それは患者が心理療法を受けることに対する経済的痛みを伴わないからです。逆に高額の自費による心理療法のほうがシビアだと思います。もちろん、自費といっても親やパートナーやパトロンに出してもらっているという患者にも起こり得ることです。
保険や無料による心理療法は経済的痛みが少ないから受けやすいといわれていますが、それだけで済まされるほど安易な問題ではないと思います。だからといって保険や無料の心理療法がすべてダメだと言っているのではありませんが。
料金による影響はありますが、それだけではなく、治療者は表面的に出ている患者の言葉や病理だけに囚われることなく、今ここでどういう関係性が生じ、何が起こっているのか、そして裏側には何があるのか、などについて思いを馳せることが大切なのだと思います。
あと、「関係性」自体は意外と少ない語彙で描写できるとも最近考えています。これは「斥力と引力」の葛藤で出来てるんですよね。マスターソンの指摘通り、「見捨てられ不安」と「呑み込まれ不安」の2つの力が渦巻いている。バリントの「オクノフィル」と「フィロバット」の2つとも言える。ただし、クライエントに返すときには、それこそ数百の形容詞を駆使しながら,どれが「関係」にフィットしているか、思い巡らしたり尋ねてみたりすることになると思います。
フォーカシングで、例えば身体の感じとの対話として語られていることが、リスナー(ガイド)の私に、ふと、私とフォーカサーとの関係性の暗喩であるように感じられる瞬間があります。
もとよりそういう自覚はその時点ではフォーカサーにないことが多い気がします。
そのことを直接フォーカサーに口にすることはあまりありません。口にしても「早すぎる解釈」=「フォーカサーの体験過程のステップにそぐわない」ものになり、未消化になると感じているからです。
でも、リスナー(ガイド)をしている私が「ひょっとして私との関係?」と思わずその瞬間に限り連想した事実に「気を留めて」付箋をつけてみておくことは結構大事だと感じています。
もとよりそれは、フォーカサー(クライエントさん)の親子関係の反映だったり、セラピスト(ガイド)の側のそのフォーカサーとの関係についての感じ方が反映している可能性もありますが、最近の私の感覚では、私とフォーカサーの「今ーここでの」関係性という可能性をまずは押さえておくことがベースラインかなと感じています。
かといって、
「フォーカサーとフェルトセンスの関係性」
=
「トレーナー(ガイド、リスナー)とフォーカサーの関係性」
と図式化し過ぎてもこれまた余計なバイアスがかかる気がして、「直観的に」そうでないかと自然と感じる瞬間の感じ方を重視しています。
インタラクティブ・フォーカシングを除くと、「リスナー(ガイド)側の体験過程がフォーカサーの内的プロセスと相互作用している」問題は、声高に語られないし、下手に語るべきでもないと思いますが、私は、フォーカサーの中で進むプロセスが、まるでリスナーである「私個人の」体験過程推進の「代理プロセス」である可能性について、何年か前、深刻に懐疑したことがあり、そのことは十分意味のある懐疑だった気がします。
そのことに「無自覚」であるよりは、そういうことで「悩んでもみる」ことに意義があるのではないかと言うこと。
フォーカサーのプロセスの「ガイド」であるにすぎない、などとお題目のように繰り返し、そこに生じている「関係性」に着目しないままよりはいいのだと。
(ロジャーズ派や分析系でも、「セラピストはクライエントさんの「鏡」なのだという言い方が使われる時に感じる違和感でもあります。比喩なのはわかっていますが、思わず「そんならほんとうの鏡の前で独語したらいいじゃん?」と言うひねくれたことすら浮かんできて(^^;)寝椅子の背後に座っていたって、セラピスト固有のプレゼンスがクライエントさんには伝わっている。セラピストはもともと「歪んだ鏡」とは言わないまでも、「生き物」として反応する存在に過ぎないわけで)
なぜ、フォーカサーのシフト体験が、リスナーにとってもシフト体験になることが多いのか? を突き詰めていくと出てくる問いです。
もとより、同じシフト体験で実は双方が全く別のことと関連づけていることが多いことがわかることも多いわけです。
そういう「同床異夢」であることの「脱錯覚」が敢えて双方に必要なことがある気もしてならない。
そういう「共謀」関係を超えた次元で、フォーカサーが自立していけることを。
(このことそのものが、「自立したフォーカサー」を理想とする私のあり方の投影的押しつけになる危険もあるのですが)
ここで、フォーカシングについて述べたことは、通常の治療的面接にもあてはまること思います。
治療者側の「分離不安」や「呑み込まれ不安」、あるいは、人間とはこういう状態が理想であるという価値観(無意識的には、正反対のものが実は「布置」されている可能性がある)がクライエントさんに影響している側面。
クライエントさんは、セラピストの「代わりに」、セラピストには不可能な人生を歩ませられる可能性に晒されている。
カウンセラーも、私人として、自分の人生を模索し続けられていないと、そうなる気もします。
あと、いうまでもなく、「症状の消失」が、セラピストの関係で仮に生起したもので、実は肝心な問題に「両者」がまだ触れていない「から」継続するという側面も重視すべきでしょう。
一度陰性転移時に症状再発して、それを「徹底操作」して克服したかに見えるときでも、実は「症状なしに生きる」ことそのものがクライエントさんにとっての基本的不安であることが多い。
症状が消えた後、ほんとうのカウンセリングが始まる、と言う意識が強い私です。
もちろん、このことは、ぽっきさんやセーイチさんの指摘と矛盾しないかとも思いますが。
まだ触れられていない、「両者の関係性」と関わる領域の問題として。
>ただし、クライエントに返すときには、それこそ数百の形容詞を駆使しながら,どれが「関係」にフィットしているか、思い巡らしたり尋ねてみたりすることになると思います。
この点は同感。新鮮に、クライエントさんと共にする場を感じながら、即興で形容詞を思い浮かべ、「今、このままの形で」クライエントさんに口にしていくかどうか、「通じる」かとうかを吟味しつつも語っていく側面は大事といいますか。
「カウンセラーの中ですでに何回もいろんなクライエントさんとの関わりの中でできあがっている理解」のままで安易に口にしないこと、と言いますか。
ほんとうに、申し訳なく、失礼いたしました。なんと、お詫びしてよいやら。
言い訳をすると、小さめのフォントでは、濁音と半濁音の区別がつきにくくて。
そして、フロイト的には、ぽっきさんのイメージからして、とても男らしく堂々とされた方かと想像していたので。
それにしても、私の脳内で今からこれを訂正するのは、時間がかかりそう。
そうか、ぽっきさんだったのか。とても可愛らしい名前ですね。
それと、これまでの私の発言の間違いをいまからすべて訂正するのは、気の遠くなりそうなので、このまま放置させていただいてよろしいでしょうか。図々しいことですが。
ところで、みなさまは気づいていながら、「しょうがないな、重元は、えらそうなこと言いながら、名前間違えてるじゃないか」などと、ずっと思っておられたのかな。そう思うと、はずかしい。
ゆみっちょん♪さんが、少し前に私のブログのフォントが小さくて見にくいといった指摘をされたのは、婉曲にそのことを気づかせてくれようとしたのかな。
なにはともあれ、もう一度、ごめんなさい。以後気をつけます。(あたりまえか)
「転移(Ubertragung)」もドイツ語の「移し替え」のニュアンスのまま捉えれば、フロイトの「母親転移が起こっているからと言って、母親との関係に問題があったわけではない」という発想の仕方をつかめそうに思います。たまたま「母親との関係」が容器となっているだけのことで、扱うべきは「母親」ではなく、「関係」のほうのニュアンスだと思う。
> 重元さん
それ、僕も気づいてなかったです(汗)。実際、濁音の見分けは難しいし、昔からよく間違えられるので、別に構いません。でも僕のイメージは「かわいくて、折れやすい、ぽっき」と修正しておいてくださーい。
あっ、やっと気が付いて下さいました??
なーんて、うそうそ(#´ο`#)
折角、素晴らしいブログを書かれているのに”フォントちっちゃ、、、”と思って読まないで帰られる方がいたら残念なことだなぁと思ったんです。
余計なお節介だったかも知れませんが、沢山の方に読んでいただきたいブログなのであんなコメントを書いてしまいましたが、言葉が足りなかったみたいで大変失礼致しました。
いつも、とても勉強になっていますので感謝しております。
これからも更新を楽しみにしてます♫♬
私もある時期まで、ぽっきさんの「半濁音」に気がつきませんでした(^^;)
その後も、投稿直前の校正後も反射的に「ぼっき」さんと打ったまま放置されているケースは実際まだあるかもしれません。そのことを修正するために再アップしたことも何回もあります。習慣とは恐ろしいものです(^^;)
>ぽっきさん
>フロイトの「母親転移が起こっているからと言って、母親との関係に問題があったわけではない」という発想の仕方をつかめそうに思います。
そうですか、フロイトはそこまで射程に入れた発言をはっきりしていましたか。
よく面接の時に、クライエントさんの言う「○○が」「□□に」の部分をいつの間にか凄い勘違いをして理解して話をきいていたことに突然気がつくことがあります。これは多くのカウンセラーの方が身に覚えがあることでしょう(^^)
日本語ってこのあたりを曖昧なままで済む傾向が、話し言葉では顕著で、脈絡の類推に委ねられがちということもありますが、ひとつには、仮に主語や目的語を「勘違い」したままでも「何となく脈絡がつながってしまう」ことが多いということに起因すると思います。しばらく話をきいていく内に、「あれ、脈絡が変だな」と感じ始め、思わず、
「.....ちょっと待って。そのように言ってくるのって、お父さんのこと? 彼氏さんのこと?」
などと確認することになるわけですが(^^)
このあたりを問い直して正確を期すことが大事なことも多いのですけど、その一方、
「あ、お父さんとのことたけではなくて、彼との関係にも当てはまるって、今言われて気がつきました」
などという展開もありふれているわけです。
つまり、ある観点からすると「主語」や「目的語」は、容易にtransferして(置換して)理解してみると気づきが広がることが可能であることも少なくない。
(これだけでも、体験過程尺度上は、通常の気づきのひとつ上、最高評定のstage7に該当すると十分言えることがある)
このことに自覚的になった頃から、クライエントさんの語り方と脈絡上、主語や目的語に誤解の余地がない場合ですら、「敢えて」主語と目的語を「空欄化」して連想を広げてみると、いろんな連想が浮かぶことに気がつきました。
そして、それを無理のない脈絡でクライエントさんに直観的に示唆すると、それだけで予想外の展開がはじまる場合がある気がします。
「先ほどまでの話の流れからすると、今の話って、『お父さんの』『あなたへの』態度だけじゃなくて、『あなたの』『お母さんへの』対応にも言えそうな気が何となくしたんだけど」
.....みたいな感じですね。
そして、安易に、親子関係の問題に「だけ」それを「翻訳して」みたくなる「文切りの転移解釈」への誘惑に屈しないで、自由に連想を広げてみるようになってきたと言いますか。
カウンセラーのみならず、今のクライエントさんって、親子関係の問題に「還元して」問題をとらえる「通俗転移解釈」的思考法には妙に慣れ過ぎていて、むしろそのとらえ方に縛られ過ぎているかなという気がすることも少なくありませんし(^^)
これがぽっきさんのいう、
>たまたま「母親との関係」が容器となっているだけのことで、扱うべきは「母親」ではなく、「関係」のほうのニュアンスだと思う。
ということにもつながるかと思います。
正確には、そう言ってないですけどね。『転移の力動性について』の注釈。
「転移性抵抗として選ばれた要素には病因論的な意味があると結論することは許されない」(著作集9,p.73)
どう見ても、のちの「精神分析」で言われる「転移」とは全く反対のことを想定している。たぶん、あるときは「病因論的な意味がある」とフロイト自身も思い、ある時期は思わなかったのだろうと思います。フロイトの中でも揺れがある。でも「病因ではない」としたほうが、僕自身には豊かな連想を引き起こしてくれます。
> 主語と目的語を「空欄化」して連想を広げてみる
ありますあります。良いですね、「空欄化」。主語や目的語は「意識」的だけど、述語のほうには「身体」的なのだろうと思います。述語に「関係性」が現れてくる(もしかしたら、「意識」は名詞で考えているのでしょうか)。そう考えながら話を聴いていくと、底流に流れているメロディのテーマを拾い上げることが出来そうです。
考えてみたら、箱庭の場合は、たとえばガンダムを使ったとしても、セラピストのほうはそのガンダムを「空欄化」して物語を聴きますよね。「ガンダム」のところにいろいろな人物や元型、気持ちなどを入れて物語を膨らませていく。それを「転移」全般でも応用できるのは、そりゃあそうだ。良い切り口をありがとうございます。
ユングにも「ライオンが父親を表しているというのなら、なぜ父親はライオンを表しているとも言わないのだろう?」というナゾナゾがあったと思います。
ありましたよね。確かに。
もっとも、ユング派の人には、今度は「普遍的な無意識」の問題という
「神棚に祀(まつ)り上げて」
解釈したくなるバイアスがみられる気もしますが(^^;)
要は、自分がどういう方面にバイアスをかけて理解したくなりやすいかに自覚的であるかどうかでしょう。
夢フォーカシングにも、「登場人物を自分の分身としてとらえてみる」というsuggestion(質問)の提案が公式としてありますけど、同一人物に何回も夢フォーカシングのガイドをしていると、この方略そのものがその人にとっても新鮮でなくなることがあります。私もマンネリ化を漠と感じ出す(^^;)
そうなると「収穫逓減の法則」にはまり、繰り返していっても初期の頃の生産性がなくなったままだらだら繰り返す形にはまりかかることがあります。
トレーナーとしてもルーティン化しない、新鮮なsuggestionパターンを開拓し続けねばならない。
.....とつなげば、セーイチさんの本来のエントリーに話題を十分戻せるかも。
本日になって、過去のコメントをさかのぼって見てみたのですが。たしかに、こういちろうさんや、他の方も濁音で書かれている例がありました。というか、誰もが一度は通る道なのかも。(そりゃ言い過ぎか。)
もっとも、私の場合には気づくまでの間が長かったということが問題で。
振り返ってみると、途中で気づいてよかった瞬間が何度かあったような。
誰かが半濁音で書いているのを見て、「おや」と思いつつも、その人が間違えているんだろうと通り過ぎちゃった。
で、最終的に、ご本人の署名をフォント拡大して見て、なんと、それでも「ご本人だって間違えているかも」とか、一瞬考えて、自分の間違えだと認めるまで時間がかかりましたね。こりゃ、重症だ。
自分の思い込みの強さ、間違えを訂正することの困難さを、しみじみと思い知らされた経験でした。
今まであまり意識しませんでしたが、半濁音というのは、かなり文字を拡大しないと閉じた丸にはならないのですね。
で、小さいフォントでは、濁音が横並び点点、半濁音が斜め並び点点で、表示されていて、たいへん見にくい。
しかし、もともと知っている一般名詞は、それでもまず間違えない。「セラビスト」とか読まないんですね。
固有名詞は注意しないといけないなと、認識。しかし、これもネットでのみのやり取りで生じる特有のことで、リアルな関係ではまずあり得ないですね。
読み方とかも、「一休さん」は、「いっきゅうさん」でいいのかな、もしかしたら「ひとやすみさん」かな、とか。
「ゆみっちょん♪さん」は、どのような音程で発音すればいいのかな、とか考え出すといろいろ不安になります。
ちなみに、「重元寛人」は一応「しげもと ひろと」ということにしていますが、別に「じゅうげん かんじん」と読んでいただいてもいいです。そちらの方が重々しくてよいかも。それと、私も最初の頃は自分で「重本」と違う漢字を使ったりしたこともありました。
ゆみっちょん♪さんの、ご指摘の件ですが。
ちょっとブログの設定のところを見てみたのですが、用意されたテンプレートをそのまま使っているので、「高度な編集」という設定でHtmlを書き換えればデフォルトの大きさを変えられそうなのですが、それをやると思わぬ不具合をきたしそうで。知識が不十分なので高度なことには手を出さないでおきます。
ぽっきさんのフロイトの転移のニュアンスについてですが。
「移し変え」というのはおっしゃるとおりだと思います。
フロイトはあんまり「治療者=母親」といったような図式で転移を述べてはいませんね。
かつての親との関係が、転移をとおして、治療者との関係の中に再演されている、というような捉え方。
また、「親子関係に病理がある」という捉え方も少し違う。
むしろ、幼少期の親子関係は誰でもある意味病的といえる。
そこに病因があるとすれば、ある段階から次の段階への移行がスムーズになされず、ある段階に「固着する」ことの中に素因が形成されるということです。
成長してからの個人が、現実との関係で困難に陥ると、強い固着点をもった人は、その段階まで退行してしまいがちである。これが、神経症の発病です。
転移についての捉え方も、フロイトは最初の頃と後期とで変わってきています。
ある時期、おそらくフロイト自身が治療においてしばしば患者から不釣合いな程に強い感情を向けられ、苦労していた。
彼は、これを転移と名づけ、抵抗の一種と解釈した。転移の取扱いが、治療において一番むずかしいと。
そこでは、転移は抵抗と同様、乗り越えるべきもの、というニュアンスですが。
後には、むしろ転移の解釈過程そのものを、治療の重要なプロセスとして、ポジティブに捉えられているような印象があります。
40年程のフロイトの臨床においても、捉え方に変化がある。
このブログで繰り返しとりあげられたテーマですが、経験から抽出され変化してきた枠組みを、それだけ取り出して当てはめてもだめだということでしょうね。
>これもネットでのみのやり取りで生じる特有のことで、リアルな関係ではまずあり得ないですね。
逆に読み間違いは、ネットでは暴露されませんが、リアルでは漢語の読み方を間違えて覚えているということがあります。
けっこう偉い先生なんかが、そういう間違いをしていると、周囲の人はなかなか指摘できなかったりして。
だいたい、中学から高校の頃に、本を読んで新しい言葉を覚えていくのに、辞書でいちいち読み方確認したりしませんから、そこで間違えて覚えてしまいがち。
大抵は、大人になるまでのどこかで訂正されるのだけど、まれに訂正されず、本人があまりに堂々と使うので、周りも指摘しにくかったり。
私の場合は、高校くらいまで、「兎に角(とにかく)」を「うさぎにつの」と読んでいましたね。夏目漱石などに、よく出てくる。もちろん、「とにかく」の方も知っているから、別の言葉と思っている。
同じようなので、ごく最近まで訂正されなかったのに、「赤裸々(せきらら)」を「あかはだはだ」と読んでいた。これも、別の単語と思っていました。訂正された時は爆笑の的。でも、「あかはだはだ」の方が、今でもおどろおどろしくてぴったりした読み方だと内心感じています。
「沢山」を「さわやま」と読んでいたこともあるけど、これは間違いでもなくそういう読み方もあるようで、広辞苑にもちゃんと載っている。
風物詩[ふうぶつし]を[かぜものがたり]って読んでしまって中学の授業のとき笑われました。
ぜんぜん字が違うのに(; ̄ー ̄;A
そういえば前、ぽっきさんのマークをだしたときに
って書いてあったんだけど、みて下さらなかったかしら。。。(T_T)
よく考えたら「ぼっ○」さんなんてハンドルネームもなかなか珍しいんしゃないですか?アダルト系ならあるかもだけど。
ま〜わたしは○っきさんも好(自粛)
この辺で戻りましょう!
マークね、「はて、なんだろうな」と思ってました。そこで気づかないのがバカですね。これからは、ゆみっちょん♪さんのサインには気をつけます。
アダルトの件に関しては、ぽっきさん(まだ違和感あり)のことだから、あえてそういう言葉を堂々と使うところにアナーキーなメッセージ性をこめているのかとか。
わたしも、うっかり日本語変換すると必ずあの言葉がでてくるので、そのたびに「いかんいかん、このままアップロードしては大変」とかは気にしていたんですがね。
「間違えていたを許してくれーーーー!! 許してくれーーーー!。どうしてみんなはそのことで僕のように恐縮して謝らないであっさり悪びれずに開き直れるんだーーー!!」
「いいよ、もう気にしてないから」と相手に言われて、「私もそうだったよ」と周囲に慰められても言いつのらずにいられない、この、重元さんの「転移感情」って何なのだ....とか。
....あの、これ、
ここでこれからそれについての重元さんの「具体的な自己分析」を繰り広げて欲しいからではなく、「沈黙して静かに味わう」中でその「言葉で言いようのないモヤモヤ」を感じて、「その感じ全体と共にいる」中で少しずつ無理なく消化されていく任せる方がいいことではないか.....という意味です(^^;;;;)
罪や失敗は、ただ「背負う」しかない時もある(^^)
オーディオ用語の「臨場感」を、ずっと「りんばかん」と読んでいて、かつてオーディオ仲間のいる席で思わず「口にして」大爆笑を食らったこういちろうより。
「今でも、私は、自分の書くことの中で、知ったかぶりを山のように重ねて、そのへんを笑って黙って読んでいる人もいるよね、笑ってくれてもいいよ、私の限界や一面性を。訂正したり別の意見を敢えてはっきり言ってくれたら感謝するよ。でも、そういう限界を含めて、敢えて自分の感じ方をさらしたいんだよ」
...の、こういちろうでもあります。
人は、「潔白」ではあり得ない。
お勧めにしたがって、沈黙して静かに味わって見ます。
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あー、でも我慢できない。
なんと言われようとも、
過剰な謝罪や自己分析の表明は、却って「なんで許してくれないんだ」って、相手を責めているんだよ、うざったいなー、と言われても、やっぱりこの口が勝手に語りだしてしまう、いやこの手が勝手にキーボードを叩いてしまう!!!
というか、私いつも「これで終わりにしよう」と思うけど、皆さんのコメント見ると、また書きたくなっちゃう。
もう、こういちろうさんのせいだからね!!!
実際のところ、私も意識的には、今回の件のことはそれ程気にしているつもりもなくて、単にひとつのネタにして話を展開しようとしていたんですが。
でも、ちょっとくどかったですね。たしかに。
皆様に、不快な思いをさせて申し訳ありません。と、またあやまってしまうところが、なんともはや。でも、これが私のパーソナリティーなんでしょう。
過去の書き込みを読み直して、思ったことは、名前を間違えたというような抹消的なことより、もっと本質的なところで、「あー、なんだか恥ずかしいことをいろいろ発言しちゃったなあ」ということ。
この点については、これ以上書かないでじっくり静かに味わってみます。
一休さんの表現をかりれば、「だだもれ」。
このあたり、たぶん心理療法と重なるところがあるのかと思うのですが。
最初にコメントをするときは、自分をさらすのに、すごく勇気がいる。
たぶん、今読んでいるだけの方の中にも、ちょっと発言してみたいと思いつつためらっているという人がいるでしょう。
でも、一旦さらして、はずかしいことをしてしまうと、
これが、癖になってしまって、延々と続いてしまうんですね。
恥ずかしいことを、露出することの快感。
私が、この記事で突然、自分の勘違いに気づいて、みなさんの議論を中断するように謝罪をした、ということも、偶然ではなかったという気がする。
症状が消失したけれど親との喧嘩のことでカウンセリングの継続を希望したその患者さんのように。
新たな、しかし以前からのものと本質は変わらない問題を、カウンセリングを継続させるために、もちだしたと。
というわけで、まだまだ、セラピーは続けさせてくださいね、セーイチさん!!!
私が、このサイトを静かに去るときが、おそらく私にとっての治癒の時なのでしょう。
でも、治癒しないで、いつまでも皆さんとからみつつ、「終わりなき分析(die unendliche Analyse)」を続けたいなあ。
いえいえ、でも前と比べてかなり重元さんが自己開示なさっているところにビックリします。
きっと何か重要なプロセスなのかも。
だから、これからもっと何が出てくるかわかりません。
自我の防衛が緩み過ぎないようにお気をつけ下さいね。
素人目線で、、、失礼します。
母より
ここでこのような呼び方をすると、不思議に思われる方もおられるでしょうから、注釈を。
私をミクシに招待してくださったのが、ゆみっちょん♪さんだったので、
以後、あちらでは、ゆみっちょん♪さんを、ネット上のお母様と呼ばせてもらってます。
そして、ゆみっちょん♪さんが、このような呼びかけをするときには、母親的な気遣いをされている時だと思います。
どうです、みなさんうらやましいでしょう。
私の弟か妹になりたい方がおられたら、お母様に直接お願いしてみてね。
さて、ご心配おかけしたようですが、私はだいじょうぶです。
重元寛人が、ネット上で他者と本格的な交流をしたのは、ここのブログがはじめてなもので。
ですから、ネット上の人格というものいかなるものかが、いまひとつつかめていないところもある。
重元寛人と、リアルな私の関係がね。
もちろん、重元寛人としての発言にも責任をもってしています。
いろいろな方とのやりとりの中で、ムキになったり、かっかきたり、すまなく思ったり、恥ずかしくなったり、いろいろありますが。
しかし、そこからリアルな世界に戻ってしまえば、素に戻る。
重元寛人は私の創作した小説の主人公のようなものなのかな。
しかし、そこに他者というファクターが入るので、ここでの重元がこれからどうなっていくのか、自分でもよくわからないところがあります。
非常にエキサイティングな経験だなあ。
ここで、はめをはずしたり、退行したりしていても、リアルな世界とはとりあえず切り離されているので、だいじょうぶなんですね。
というわけで、前の発言では、私なりに流れを本題に戻したつもりだったので。
みなさんも、お気になさらずに、どうぞ。
息子より
重元さんは、ネットの世界のなかで十分に遊べているんですね。
これからもどんなキャラが表れてくるか楽しみにしていますo(*^ー ^*)o♪
母より
心理療法の終了というのは、なんだろうなという気がします。それは想定できるものなのでしょうかね?
ちなみに、事例に関しては、一休さんのコメントを読んで思ったことですが、セラピスト側のアクションが考慮に入れられていない解釈だなと思いました。すなわち、「表面にある問題が解決したら、終了を持ち出すセラピスト」という因子が、解釈に反映されていたらいいのになあと思いました。素朴な感想ですが。
あ、話が無限ループになっちゃいますか。
セーイチさんの主張は、心理療法を継続することが倒錯的に使用されているという主張だと思うけど、これを扱うのって難しいなと思います。ライヒの状況分析に当たると思いますが、継続か否かというのは、外的現実にも絡んでくるので、これを一概に転移解釈で扱うことが可能なのかという疑問が湧きます。
あとは、倒錯的であったとしても、継続することで見えてくるものがあると思う。というよりも、継続し、「器」を提供し続けていなければ、「継続が倒錯的に使用される」という理解も生じないわけだから。ここは、ただ解釈によって扱えば良いというものでもないような気がして、難しい問題だなと思います。
ちょっと自分だけが走り過ぎたという反省があります。
皆様が書き込みづらくさせていたとしたら、申し訳なかったです。
分析的なセラピーをする時には、明確な目標とかが立てないし、立てれないと思うんです。
だから、「じゃ、ここまで来たから終わりましょう」ってスパっとはなれない。
分析的なセラピーではなく、現実水準でのサポーティブなセラピーであれば、目標が明確になっているので、「ここまでできたら終わり」ってある程度、最初に合意ができている。
たとえば、「学校に行けるようになったら終わりね」とか。
この記事で書いたようなケースの場合には、どちらかというと後者のサポーティブなセラピーでの出来事だったと思います。
最初の合意の取れた目標があって、それに向けて作業をしてた。そして、目標まで来た。
でも、その間に長い時間を共有しているので、やはり転移というか依存というか、そういうのが形成されていたと思うんです。
それが要因となって、結果的に長引いていく。サポーティブなセラピーだけど、そのあたりの転移解釈(といえるかどうか分からないけど)をしたことが、当初の目標とはあまり関係のない部分だけど、少しワークスルーできたかなと思いました。
>でも、その間に長い時間を共有しているので、やはり転移というか依存というか、そういうのが形成されていたと思うんです。
ちょっと連想したのは、これを、患者に潜在していた対象関係が転移の形を伴って現れた、ととるか、治療者の治療方法によって培われた関係パターン(治療によって問題が解決されたことで引き出された依存性)ととるかは難しいところだなと思います。
あと、もう1つ連想したのは、セーイチさんが例に挙げた治療をサポーティヴに継続していくとすれば、今、依存の問題が顕わになったわけだから、次は「上手な依存法と上手な分離法」をいかに獲得していくかが目標になるのかなあと思いました。
>ちょっと連想したのは、これを、患者に潜在していた対象関係が転移の形を伴って現れた、ととるか、治療者の治療方法によって培われた関係パターン(治療によって問題が解決されたことで引き出された依存性)ととるかは難しいところだなと思います。
この事例はほとんどが創作だけど、基本的にサポーティブなものをしていたから、そこまで「潜在していた対象関係が出てきた」というのではあまりなさそう・・・かな?(^-^;A
>依存の問題が顕わになったわけだから、次は「上手な依存法と上手な分離法」をいかに獲得していくかが目標
うん、それをやっていこうという動機と気力とお金があれば可能かも。
お金の問題もファンタジーの中で扱われるところもあるけど、それでも現実的にご飯を食べていかないといけないですからね、患者さんも。
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