発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 マゾヒズムの経済論的問題(精神分析 臨床心理 心理療法)
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 S.フロイト(著) 竹田青嗣・中山元(訳)「自我論集」ちくま文芸文庫 1996年に収められている1924年の論文「マゾヒズムの経済論的問題」について、とある研究会で発表した要約です。

1、フロイトの問題意識
 快を求め、不快を避ける快感原則が一義的であるとすれば、自らを痛めつけることを求めるマゾヒズムは不可解なものである。このことからマゾヒズムは精神分析にとって脅威となるので、検討していく必要性がある。

2、マゾヒズムの検討の前段階
 フロイトはマゾヒズムを検討する前に、快感原則と二つの欲動(死の欲動と生欲動)を考察している。

 フェヒナーの恒常性の原則からすると、刺激・興奮・緊張があった場合、それをゼロ、もしくは低減していく力が働くこととなる(涅槃原則・ニルヴァーナ原則)。この場合、不快は刺激・興奮・緊張の増大、快は刺激・興奮・緊張の減少となる。しかし、これだけですべてを説明することは出来ない。快感に満ちた緊張もありえるからだ。このことから刺激・興奮・緊張の増減と快・不快とは関係がないと言える。

 快と不快は量的な問題ではなく、質的な問題である。

 マゾヒズムの事例は精神分析の患者を見ずとも、日常的に目にすることができる。それを例にしてマゾヒズムについて考察していく。

3、女性的マゾヒズム
 女性マゾヒズムをもつ男性は性交不能となることが多い。そして、空想の中で自慰的行為をすることで満足するか、空想自体が性的な満足をもたらす。空想内容は殴られ、縛られ、叩かれ、鞭打たれ、服従を強いられ、汚され、貶められ.etcこの時、主体は罪を犯し、償わなければいけないといった罪責感が表現されることもある。そして、自立不能な子供として扱われることが快楽となる。

4、性愛的マゾヒズム
 死(破壊)の欲動をリビドーは無害なものにするため、死の欲動を外部に放出させる。この一部が性的機能のために向けられ、サディズムとなる。また、一部は内部に留まり、性的興奮と結びつき、性愛的マゾヒズムとなる。

 性愛的マゾヒズムは苦痛を伴う快感であり、生物学的・素因的に根拠づけられる。他の二つのマゾヒズムの基礎となる。また、リビドーの発達段階によって色々と姿かたちが変化する。

口唇期:食べられる
肛門期:叩かれる
男根期:去勢される
性器期:SEXする、子どもを産む

5、道徳的マゾヒズム(1)
 道徳的マゾヒズムは性的色合いが少ない。また、他二つのマゾヒズムは愛する人物から苦痛を受けるというところが重要であるが、道徳的マゾヒズムそのような側面はない。

 精神分析療法の中で起こる陰性治療反応は無意識的罪責感によるものである。またこれらは疾病利得の基礎となっている。神経症的苦しみは、マゾヒズムによって価値のあるものである。

6、道徳的マゾヒズム(2)成立過程
 罪責感は超自我と自我の間の緊張であり、超自我の定めた目標に到達できないと感じたときに、不安感情として顕在化する。なぜこのようなことになるのだろうか?

 →エスのリビドー的興奮の最初の対象である両親が自我の中に取り入れられ、その際に両親との関係が脱性化される(エディプスコンプレックスの克服)。自我に取り入れられた両親の性格(厳格さ・処罰したがる傾向)が保持される。取り入れることによって、欲動の解離が発生し、厳格さが強化される。これが超自我となる。

 超自我は両親の厳格さが取り入れられたものであり、現実の表れとして強力に実感される。超自我はエディプスコンプレックスの克服の副産物であり、自我の営みの手本となる。

■無意識的な道徳性の拡張
・超自我の強められたサディズムに重点
・自我が屈服する(受動的?)
・意識化されている

■道徳的マゾヒズム
・自我に固有のマゾヒズムに重点
・超自我や外部からの処罰を求める(能動的?)
・意識化されていない

7、道徳的マゾヒズム(3)自己破壊的な機能
 無意識的罪責感は両親の権力によって罰せられたいという欲求である。父親に叩かれたいという願望は受動的な性的関係を結びたいという願望と極めて近い。このことから、エディプスコンプレックスの克服で、一度は脱性化されたものが、道徳的マゾヒズムによって再び性的な意味合いを帯びてくる。これらは性的関係という罪深い行為への誘惑をもたらすものであり、サディズム的な良心の呵責によって贖われるか、運命という強力な両親の力による摂関によって贖われる。これを求めるために、マゾヒストは不合理で、一見利益に反するような行為を行う。最終的には自己の生存そのものをも滅ぼしてしまうこともある。

 道徳的マゾヒズムは死の欲動によって発生し、外部へと向かうはずのものが内部へと向う。さらに、これは性の欲動の成分もあるので、リビドー的な満足を伴って、破壊欲動を助長させる。


8、Discussion

(1)本論文の最初のほうに、涅槃原則・快感原則・現実原則についての説明をし、その後マゾヒズムの説明に入っているが、その3つの原則からどのような論理的展開でマゾヒズムの考察に移ったのかが良く分からない。(pp277-278)

(2)女性マゾヒズムにおいて、顔と性器だけは傷つけてはならないとなっているが、それはなぜか?(pp280の3行目)

(3)エディプスコンプレックスの克服の副産物として超自我やそれによるマゾヒズムが出現するとなっている(pp286)。しかし、すべての人がマゾヒズムの傾向をもつものではない。人がマゾヒズムになるかならないかの分かれ道は何だろうか?また、一部の神経症や境界例のように過酷な超自我のゆえに、過度にマゾヒズムになる人もいるが、このように異常なまでにそうなってしまうのはなぜだろうか?

(4)抑うつの人の自責感や希死念慮はマゾヒズムと同じなのか?違うのか?


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コメント
この記事へのコメント
面白い論文だなあ。「悪いことをすると、なぜスリルを感じて楽しいのか」ってことですね。そういうマゾヒズムは一体どうなっているのか。

(1)それまでの「涅槃原則=快感原則」の図式をフロイトが捨てる必要があったから。死の欲動・生の欲動・外界を、それぞれ涅槃原則・快感原則・現実原則に振り分け直している。むしろ死の欲動を制御するために、生の欲動には「緊張」を「快感」と感じるように性愛化する働きがある。つまり、涅槃原則と快感原則との調整で生じるものが「性愛的マゾヒズム」。これがマゾヒズムの源泉。そして、それを現実原則にも適合させようとして、愛する対象を自己に取り込むのが「女性的マゾヒズム」で、対象が脱人格化されたのが「道徳的マゾヒズム」。こうして自己の中に他者が組み込まれ、女性的マゾヒズムが自我の核となり、道徳的マゾヒズムが超自我を形成していく。

(2)著作集では「顔」ではなく「眼」になってるんだけど。「眼を傷つける」は、エディプス神話で「去勢」を意味する行為だからなあ。「眼」は「覗き見」のような倒錯的行為に性的興奮を与える性感帯(つまり他者の出入り口)。アダルト・ビデオを見て自慰行為をするのもマゾヒズム。

(3)ということで、全ての人がマゾヒズムを持っている。悪いことは楽しい。ワクワクする。「何やってるんですか」って叱られたい。あるいは反対に、他人の悪行にもツッコミを入れたい。そうすることで、超自我のサディズム(死の欲動)を小出しに蕩尽している。でも、そういう快感を自分に禁じていると、このサディズムは過酷になっていく(フロイトは書いてないけれど、虐待とか受けていると現実原則自体が過酷にもなるものなあ。「こんな酷いことをしてくるのは、私を愛してくれてるからだ。それが分からない私は悪い子だ」という性愛化が起こると、マゾヒズムが歪曲してしまうでしょう)。

(4)抑うつは「悲哀とメランコリー」のほうで。自分を見捨てた対象への怒り(死の欲動)が先にあり(たとえそれが事故で亡くなった親であれ「なぜ死んだ?!」という怒り)、それを生の欲動が性愛化することで「自我」となる(「私の心の中で、今も見守ってくれている」)。このプロセス自体がマゾヒズム。

よく分からないけれど、まず議論の土台としてはこんな感じ?

2008/01/14(月) 13:56 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

私は心身症の一種としての心因性腰痛、心因性背部痛、一括すると心因性疼痛が、
どんな心理的課程を経て、発生および固定化してゆくのか、知りたいと思っていました。
夏樹静子著「椅子が怖い」のパターンです。

心理的要因、ニートなどの境遇的問題などを原因として、腰痛や背部痛を主体とする
強い疼痛が出現し、日常生活の遂行そのものに重大な支障を来している方が、
割合頻繁に、精神科外来を受診されますが、この成因は何なのか?です。
ディスカッション4に関連します。

その一端を、エディプスコンプレックスの克服が、両親の厳格さ・処罰したがる傾向の保持
と関連付けて考えると、理解しやすい気がします。

作家の夏樹静子氏は当然の事、これまで、心因性疼痛にて精神科外来を受診された方は、
自己に厳格な課題を科し、それを遂行する過程で、抑うつ気分が発生しています。
抑うつ気分に伴う自責感に、一片の快感も感じておらず、マゾヒズムとは異なる印象です。

心因性疼痛に関しては、決め手となる文献が、現在のところ見つかりませんが、
対象となる患者様は激増しているので、私の中では、考察が急務でした。
ただ、主な論点からずれるので、下記を記して、本日は終了させていただきます。

治療としては;
・疼痛の辛さの受容
・自己に厳格であり過ぎる事の修正
・修正は容易ではないので、補助としての、抗うつ薬の投与
などで、非常に改善する例が多いですが、薬剤からの離脱はどうしても困難です。
ただ、薬剤は、プラセボであっても有効な場合が多いです。
2008/01/14(月) 15:57 | URL | ヤキソバ # TpxBOJeA [ 編集する]

ローフィングだと、腰痛や背部痛は「腹部の緊張」に関連づけますね。人は危険を感じると、身を守ろうとして腹筋が緊張する。すると猫背になるので、そこに「背筋を伸ばして話を聴け」とか言われると、腹筋に力を入れたまま背筋にも力を入れてしまう。ブレーキをかけながらアクセルを踏むようなもので、これをやれば周囲の筋肉を疲弊させます。さらに背骨を萎縮したまま伸ばすものだから、脊椎の神経を圧迫する。

身体的な症状は、なかなか心理的なことと受けとめてくれない人もいます。そんなときカウンセリングだと身体に触るわけにもいかず、上記のような仮説を伝えた上で「腹筋の緊張と関係あるそうですよ。どんなときに、お腹に力を入れてしまいます?」と尋ね、身体の緊張と対人関係の状況とを関連づけていくことを僕は使ってます。そこあたりは、さりげなく身体にもアクセスできるお医者さんがうらやましいです。

2008/01/14(月) 18:07 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

 いろいろと面白い問題提起をしている論文ですね。

 セーイチさんのサマリーはとてもよくできていると思います。ただ「刺激・興奮・緊張の増減と快・不快とは関係がないと言える」というのは、ちょっと言い過ぎで、「快感原則の彼岸」に「不快はこの量の増大に対応し、快はこの量の減少する(自我論集p116)」とあるように、関係はあるけれど、単純な関係ではないということでしょう。

 題名の「マゾヒズムの経済論的問題」というのは、「マゾヒズムは損得勘定で考えた場合にどうなのか」っていう問題意識だと思いますね。快不快のシステムというのは、動物が生存と生殖を最適になすために進化によってつくられたしくみでしょう。それぞれの個体は、快を求め不快を避ければそれが適切な行動を導くと。そう考えると、サディズムは自己の保存のために他者を攻撃するわけだから、理にかなっている。ところが、マゾヒズムというのはそれ自体あまり利益をもたらしてくれそうにない。だから、フロイトは根源的なサディズムはあるけれど、マゾヒズムはサディズムを自己に向けかえることで二次的に生じるのだろうと、最初はそう考えたんですね。ところが、いろいろ見ていくとどうも根源的なマゾヒズムというのがありそうだ。こういう逆説がこの論文の出発点だと考えます。

 私としては、この論文で一番考えさせられたのは、性愛的マゾヒズムのところで、身体的苦痛が性的快感になるということが、例外ではなくむしろ普遍的なことであるという示唆です。苦痛こそが快になる。逆説のようだが、なんだかしっくりくるところがあります。食べ物なんかでも、刺激が強くて最初は嫌だったものが繰り返すうちに病みつきになるとか。ぼっきさんの言う「スリル」なんかもそうなんでしょうね。

 ディスカッションについてですが。

(1)たしかに、ここのところは少々つながりが悪いですが、快感原則と涅槃原則の問題はやはり重要で、マゾヒズムの問題ともからんできそうです。涅槃原則が刺激の総量をひたすら下げようとする傾向だとすると、それだけでいいんじゃないかとも思えるのですね。なぜそこから、快と不快という質を作り、それを感じる主体というものがあるのか。コンピュータのように自動的に処理していけばいいじゃないかと。例えば、痛みは身体を保護するために必要な信号であると言われればそうかと思うけれど、実際にそれを体験したら「もういいからやめてくれ」と思ってしまいますよね。涅槃原則の上位に快感原則があるとすれば、それは興奮の増大から不快を、減少から快を生じさせるという大まかな傾向はあるにせよ、後者が前者を単純になぞっているものではなく、何か「ずれ」のようなものがあるのだろうと。そこにマゾヒズムの問題がかかわってくるのだと思います。

(2)ぼっきさんのご指摘のように、眼と性器ですね。眼と去勢との関係については、「不気味なもの」という論文に詳しく書かれています。もちろん眼という器官がそれ自体大事なものではあるが、それにしても人々が眼の喪失をこれほどまでに怖れるのは、それが男根の等価物であるからであると。セーイチさんの引用部分は、「実際に性器と眼だけは傷つけてはならないという条件となって、空想における負の痕跡を残している」とありますから、もともとのマゾヒズム的な願望は、「去勢して欲しい」という反対の内容だということでしょう。男性における女性的マゾヒズムは、(父によって)去勢され、交接され、妊娠させられるという空想です。これについては、「十七世紀のある悪魔神経症」という論文に詳しく、そこで「去勢への快」という言葉によって、去勢不安への男性的抗議という態度とは別の側面を表現していることを知りました。

(3)ここは私自身の考えですが、やはりどの人間もマゾヒストなのだと思います。厳格な戒律に従う熱心な信者とか、身を粉にして仕事に打ちこむ人間とか、そういうのは分かりやすいマゾヒストですが、宗教とか仕事とか形があった方がおそらく本人も落ち着くのではないでしょうか。現代文化においては宗教やさまざまな規範による人々への締め付けは全体的に緩くなったのでしょうが、それでみんなが「ばんざーい、清々した」と喜んで享楽にふける、という風に必ずしもならなかったところが、人間の根源的なマゾヒズム的傾向を証明しているように思います。

(4)たぶん同じなのでしょうが、一方では周囲へのサディズム的傾向ということも大きな要因なのでは。フロイトでは「女性同性愛の一事例の心的成因について」という論文に自殺についての考察がありました。
2008/01/14(月) 22:20 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

 このエントリーも、盛り上がってきましたね(^^)

 何か自然と直前のエントリーの延長になる内容ですね(^^)

 私はフロイト自身の著作となると、宙で検索できるほどの認識はとてもないので、皆様のやりとりからいろいろ学ばせていただいていまーす(^^)
2008/01/15(火) 01:30 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

ぽっき先生、解説をありがとうございます。
この考えは、なるほどとは思うのですが、心因性疼痛の所見に符号しません。

疼痛部位として代表的な腰部と背部に関して、MRI検査による神経の圧迫などの有無、
その他、筋電図、CPK測定などの神経筋肉系検査には、異常は皆無です。
また、疼痛部位が、少しずつ移動するのが特徴で、これを説明しにくいです。

腰部と背部以外に、よくある疼痛部位は、首、足関節、前立腺、歯などですが、
ベルトコンベア式に、疼痛部位が順番に移動する方も多いです。
前立腺は、慢性前立腺炎もR/Oすべきですが。

また、多くの方に共通するのは、家族内人間関係のいびつさがあります。
それは、エディプスコンプレックス関連?の、対象が両親だけではなく、
配偶者、兄弟姉妹、子が主な対象になっているケースもあります。

現時点で、クリアーな説はなく、多くの説を集めて、
帰納的に理解に近付くしかないと思っています。

心因性疼痛の問題は、臨床場面では大きな問題なのですが、
ここでは、マゾヒズムが主な論点なので、別の機会に、
また、書かせていただたいです。
2008/01/15(火) 22:21 | URL | ヤキソバ # TpxBOJeA [ 編集する]

ええ、客観的な検査で出てこないので「心因性」となるのですから。そして、ヤキソバ先生の言われるように、家庭環境に緊張を抱えておられること、僕もそう感じます。そこで「腰の痛みと今の対人関係に何か関係がありそうだ」と気づいてもらうための一工夫が要るわけです。

ここあたり、他のセラピストだとどういう工夫をされているか興味があります。また機会がありましたら、先生の工夫を教えてください。そのときを楽しみにしています。

2008/01/15(火) 23:26 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

重元さんへ

> 眼と性器ですね。

ここ「ファルス」と書かれてから直されたでしょう? なんか、そのことがすごく連想を引き起こしました。一つは、日本の古語で「性交」のことを「目合い(まぐわい)」と言うこと。「目」が「性器」のメタファーに使われることが、日本でもあることに気づきました。ドイツ語でも、そんな隠語があったりするのかな。

それと視線恐怖。「人に見られているんじゃないか」という恐怖は、「目」が「ファルス」であるなら、これは「レイプ」を言ってるのだということ。サルトルの眼差し論を引くまでもなく、「見られる」というのは、自分が他人の「対象」になること。「モノ化」させられるという意味で、これもマゾヒズムなのかと思いました。そして、統合失調症の「監視されている」という体感も、カタトニーの緊張混迷も「モノ化」と見れば、マゾヒズムの射程の広さに驚きます。

すると「眼と性器を傷つけないマゾヒズム」というのは、以上のような「モノ化」を避けるための防波堤だと言えそうですね。死の欲動によって自分が「人間」から「物体」になってしまうのを、ギリギリのところで阻止しようとする努力。するとエディプス期の「去勢」のほうは、「私」という言葉に自分自身を置き換える、象徴化としての「モノ化」なのかも知れない。そんなことを考えました。

2008/01/16(水) 00:21 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

短い間に書き換えたのですが、見られていましたか。
書き換えの意図としては、フロイトが論文の当該箇所では「性器」という言葉を使っていたからです。
でも、私としては実は「ファルス」でいいのではないかと思っています。だから後の「男根」というところはそのまま残していたりする。
フロイトは、後期には性器と男根(ファルス)の区別をはっきりしています。(「幼児期の性器的編成について」など)エディプスコンプレクスの没落までの小児は、男子も女子も男根すなわちおちんちんかクリトリスしか認識していない。性器、特に女性の膣が発見されるのは思春期以降である、としています。

以下は私のまとまりない連想。
よく漫画で「すごく興味をもって見る」ことを表現するのに、目がびよーんと飛び出た絵を描きますね。あれは、見ることの性愛的な意図をよく表していると思う。
漫画ついでに、ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父。去勢の逆ですね、目玉だけが生き残っている。父親の目玉=ペニスが、鬼太郎の自我理想的な役割をになっている。
見ることの態度には、男女差があると思う。男性は能動的で妄想的あるいはフェティシズム的。女性は受動的で現実的。視覚的なポルノに男性用が多いのは、女性の性が歴史的に抑圧されてきたといった理由だけではないのでは。
男性の方が目を失うことへの怖れが強いので、眼鏡を好む。外見上のこともあるだろうけど、眼鏡で目を守られる感じがするし、コンタクトレンズのような異物を目に入れることへの抵抗が大きい。
思春期になると、他人から見られることに敏感になり、「自意識過剰」と呼ばれるような状態になります。これは、自らの内にある、見ることへの欲望、その性愛的、攻撃的な意味にぼんやりと気づいた結果の防衛的態度ではないでしょうか。

痛みについて。
痛みが快になりえるということは、性愛的マゾヒズムの不可思議にして重要なポイントだと思います。だからといって、痛みに苦しみ人に「気持ちいいんだろう」などと言ったらおこられるでしょうが。
フロイトは、「ナルシシズム入門」で痛みについての考察をしています。(エロス論集p246-248)
身体的痛みに苦しむ人は、他者や世界への関心を引き上げてナルシス的に閉じこもっていると。
W・ブッシュが歯痛に悩む詩人について言及した「奥歯に開いた小さな洞窟の中に、魂が一人で引きこもっている」という言葉を引用しています。
器質性の疾患と心因性の疼痛の違いは、前者における身体部位の器質性の変化に相当するものが、後者においては身体の各部位の性感性の変化であるということ。

投稿してからちょっとした間違いに気づいたのでまた訂正。これがわかったらすごい。と、ためしてみたりする。
2008/01/16(水) 21:57 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

重元さんの仰ってること、めちゃめちゃフロイトらしいお話ですね。
そういえば、まだだれも書いてないけど「視姦」するっていう言葉があるくらいだから「目で見る」はサディズム的なのだろうなぁと思いました。
2008/01/16(水) 22:20 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

サディズムとマゾヒズムは対になっている。根源的なマゾヒズムは根源的なサディズムと同じものだとフロイトは言っています。
だから、サディズムは単に相手を攻撃するのではなく、相手がいたぶられてマゾヒスティックになっている(=恥ずかしがっている)のを見ると余計興奮する。
特に尻を見るというのは、親からの懲罰というマゾヒズムを連想させるから、興奮するんですね。
2008/01/16(水) 23:19 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

さすがに今回は、書き換える現場を目撃できませんでした・・・。

目玉の親父は、まさに「そう」ですね。父親のファルスを表すに、こんな恰好の例はありません。気づいてませんでした。感覚受容器の中で、一番「主体性」を発揮しやすい部分だからかな。フーコーの「パノプティコン」を思い出します。権力は「目」によって表現されるんですよね。Evil Eye。ユングが子どもの頃見た「地下世界の王」の姿が、ペニスに大きな一つ目がついている怪物だったのも、こうした系列なのでしょう(映画「ロード・オブ・ザ・リング」の魔王サウロンが「目」だったのもね。あれが「耳」とか「鼻」だったら、ちょっとマヌケ)。

「痛み」は、重元さんが「経済論的」を「損得勘定」と読まれたことがすごいなあ、と思います。僕は単純に「リビドー経済論」のことで、リビドーを「通貨」に見立てて心理状況を説明したのだろうと思ってたのです。でも、そうではなく「痛みには、どういうメリットがあるか」という問いだと言うことですね。メリットが無ければ、それを嗜好の対象とする行為には意味がない。それが「心因性」の核となること。外的なウィルスとかが侵入してくるのではないから、心因性の症状選択には「メリット」が絡んでいる。

フロイトは最初は信号説を採用していた。「なにか危険があるぞ」という警告信号として「痛み」を考えていた。それではうまく説明できない症例と出会うことで、その説を捨て「初めから、痛みには快感がある」と変えたんでしょうね。自分の実感とは合わなくても、臨床と理論との整合性を考えると、こちらのほうが説明がつく。

この論文は「快感原則の彼岸」や「自我とエス」の流れにあるのだろうと思います。ヒステリー以外の神経症も精神分析の対象となったことで、第二局所論が必要となった。つまり「超自我」の導入ですね。これは第一次大戦後のドイツやオーストリアの状況が関係あるのかな、と漠然と感じます。戦争神経症のフラッシュバックや強迫観念。あるいは帝政からワイマール共和国になったのに、「自由」を捨てて「権威」にすがりつこうとする民衆(フロムの「自由からの逃走」のように)。意識的には「快」でないものでも、そこには何か「メリット」があるのだろう、と。

2008/01/16(水) 23:56 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

ぽっきさん、重元さん、こんにちは。

>目と性器、見られることの「モノ化」

僕はこのくだりを“見て”(笑)、精神分析がカウチ設定で行われることを連想しました。すなわち、視線の交錯を消失させる設定であること、“寝る”という性行為を彷彿とさせるセッティングであることも、何か関係しているのかな、と。

2008/01/17(木) 00:17 | URL | のん # - [ 編集する]

えっとCとDの間じゃダメかしら(笑)。

>映画「ロード・オブ・ザ・リング」の魔王サウロンが「目」だったのもね。あれが「耳」とか「鼻」だったら、ちょっとマヌケ

そういえば、アレをみて「ユングのファルスに似てる」とちょっと思ったときがあります。あの目玉は大きな「塔」の先についてるんですよね。
映画で「目玉」になったのってそういう意味があったのかも。
ずっと見られてるって怖いです、、、。

古代エジプトでも魔除けに「目」のモチーフを多用していますね。
自分の目の周りまでアイラインでグリグリに強調したりして。
2008/01/17(木) 00:37 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

のんさんへ

寝椅子は、それ以前に催眠療法で使っている学派があったと思います。たぶん、リラックス状態を作るには適切な設定なのじゃないかな。「目」を意識しなくて済むから。そこでトラウマの話になれば、それは行動療法の脱感作と同じだし、夢の報告になれば、意識の検閲が弱い状態になり連想が進む。「検閲=目」でしょうね。寝椅子の上でもぞもぞする行為を性行為に絡めて解釈することをフロイトもしてたけれど、それは「秘密」が出てきやすい状況だからでしょう。

とはいえ、この方法を採用したフロイトとしては、視線恐怖が理由だろうと思います。彼は、ずっと広場恐怖に苦しんでいたから。毎日毎時間、患者さんの視線に晒されてたら、自分の身が持たない。「人の目」が気になる小心者です。それで寝椅子を採用してみたら意外と使いやすかった、と。

これは、少し前の「電話相談」の話とも関係あるんですよね。クライエントからセラピストが見えない。自分の話に対する視覚フィードバックがない。すると相互作用が少なくなり、普段は隠している対人関係パターンが純粋な形で出てきます。つまり「転移」になる。そこを有効に活用すれば転移分析なのに、そういう素養が無い人が「電話相談員」をすればただ「反復」が生じるだけで、電話をかけたほうもかけられたほうも困ってしまうのは当り前。無意味に「電話依存」にされてしまった人も可哀想だと思います。やるほうは「電話相談」の意味をもう少し考えれば良いのに。


ゆみっちょん♪さんへ

いやあ、サイズの問題じゃないです。ハートの広さが大事です。ハートの広さが表現形として胸の大きさとなり、豊穣性を体現する。それが「巨乳」の持てる受容力だと思うんですよ。たとえAであっても、その人のハートの広さによっては「巨乳」なのです(妙に力説)。

> 古代エジプトでも魔除けに「目」のモチーフを多用していますね。

「目勝ち」というのがありますね。古事記でサルタヒコが、天から降りてきたニニギの進路を妨害したとき、アメノウズメがサルタヒコと睨み合いをし、打ち負かしてしまう。悪霊で出会ったときは、悪霊の目を逸らさせれば霊力を失わせることが出来ます。このために日頃から訓練しておく方法が「にらめっこ」だったのでしょう(ホントウか??)。

アフリカの部族たちが使う盾には渦巻き模様が書かれていて(そういうのは東南アジアでも見られるんだったかな。縄文模様もその一つだったか)、これは「悪霊と対峙するとき、この渦巻きを見て目を回すようにするためだ」とか中沢新一が言ってたかな。力関係が「目上/目下」になるもの、視線の持つ魔力に関係あるのだろうと思います。

2008/01/17(木) 21:08 | URL | ぽっき # 701gxeB2 [ 編集する]

以下の話はまったくの冗談なのであしからず。
私の中には女性についてのひとつのスペクトラムがある。
一方の端には、眼鏡をかけて、知性的で、貧乳で、貞節で、真面目で、つまりはファザコンの女性がいる。
もう一方の端には、巨乳で、性格はおおらかで、性的には奔放で、コケティッシュな魅力をもった女性がいる。
前のタイプでは、父への従順から他の男性への性欲を抑圧するために知性を防波堤にしている徴が眼鏡であり、結果エストロゲンの分泌が抑制されて貧乳になるというメカニズムがある。(繰り返しますがもちろん冗談ですよ。)
どちらのタイプにもそれぞれの魅力があるわけなのですが、しかし巨乳のメガネッ娘となると、ちょっと想定外ですがそのギャップがまたよいかも。お硬めのスーツを脱いだら意外に巨乳だった、なんていうのには萌えるでしょうね。

目の力といえば、手塚治虫の「三つ目がとおる」という漫画もありました。
おでこにある第三の目は危ないから、普段は絆創膏で隠している。

以下は少し真面目な話題に戻ります。
統合失調症の眼球運動の研究で、なんかS字型みたいの図形を見せて目の動きを計測するというのがありますね。
統合失調症では探索的な眼球運動がおちているというのですが、あれを見ると普通の人がいかによく目を動かしているかというのがわかります。まさに、曲線を愛撫するように見るわけです。
そういう自分自身の目の能動性みたいなものが低下すると、外からの視線に対して脆弱になってしまうのかな、などと思ってみたりもします。

おっと、ぼっきさんに先をこされたか。
2008/01/17(木) 21:31 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

> いやあ、サイズの問題じゃないです。

ん?そうなんですか??
なんか苦しいけど(笑)納得です^^

> このために日頃から訓練しておく方法が「にらめっこ」だったのでしょう(ホントウか??)。

そんなバックグラウンドがあったなんて、、、。

> アフリカの部族たちが使う盾には渦巻き模様が書かれていて

そっか、「イシスの目」以外にも色々な「目」に関するモチーフがあったんだ。
そういえば、自然界にもありますよね。羽に目玉っぽい模様かついた蛾とか蝶とかいますしね。
そういうのを人間が取り入れたのかなぁ。
孔雀も目玉っぽい模様だけれど、あれは「求愛」の意味があるんでしょうか。だとしたらやっぱり目には性的な意味がある!(ちょっと強引)。
2008/01/17(木) 21:45 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

> お硬めのスーツを脱いだら意外に巨乳だった、なんていうのには萌えるでしょうね。

う~ん、わたしの知らない世界だけれど、なんとなく巨乳メガネの良さが分りました。
ギャップが良いんですね!(笑)

眼球運動のお話も興味深いです。目の動きが活発なときは他人の視線の「刺激」にも耐えられるってことですよね。
こういう研究は無いのかな~。
2008/01/17(木) 21:53 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

いやあ、重元さんのスペクトラム理論、説得力あります。

> お硬めのスーツを脱いだら意外に(以下略

そうでしょ? 萌えるでしょ? 夢があるでしょ?!(オヤジモード)

> S字型みたいの図形を見せて

最近、アスペルガー症候群の研究で似たようなのを見たことあります。アスペルガーの子って、話を聴いてると「人からどう思われるか」を強く意識してるんですよね。「心の理論仮説」って嘘っぽいなあ、と思ってます。これは、人の気持ちがわからないのではない。あれこれ考えすぎてるからじゃないか、って。

自閉症のスペクトラムで考えるよりは、強迫障害のスペクトラムで考えるほうが納得がいきます。


ゆみっちょん♪さんへ

> 孔雀も目玉っぽい模様だけれど、あれは「求愛」の意味があるんでしょうかね。

メスの孔雀から見て「危険な香り」(笑)がするのかも知れないですね。
孔雀は威嚇にも羽根を広げるんだったと思います。インドのゴルフ場には野生の孔雀がいて、羽根を広げたままゴルファーに突進してきて困る、という話、椎名誠か誰かで読んだことある。性的なアピールは、縄張りを守る力強さとも関係あるのかも知れない。「頼りにしてまっせ」って。

2008/01/17(木) 22:07 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

> 「危険な香り」(笑)がするのかも知れないですね。

「危険な香り」がする♂を好むのは人間も動物も一緒なんですね。わたしも目が「鋭い」人が好きかも。危険そうでしょ?(笑)。

英雄色好みと言うし、やはり「セックスアピール」に富んだオスが勝つのかも知れない。
というか、「女好き」なのが「強さの原動力」なのかも知れない。

でもやだなー、そんな人ばっかりだったら。あっはっは。

、、、あれ?何故こんな話に。
2008/01/17(木) 22:28 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

ものを見るには二種類の見方があるのではないかと思います。
ひとつは、男性的な見方で、ある特定のパターンを探索するように突進していく。能動的です。しかしひとりよがりです。
もうひとつは、女性的な見方で、情報を平等に受け入れて吟味する。人の表情を読んだり、そこからその場の空気を察したりというのは、こちら。

男性的な見方と、女性的な見方は、両方同時にはできるものの、一方が強くなると他方が弱まるという意味で相互に排他的なところがある。このバランスが男性的な方に偏ったのが、自閉症スペクトラムかなと。

アスペルガーの子が人からどう思われるかを気にするのは、やっぱりぴんときていないからでしょう。普通なら、非言語的に見て、察して、納得して、自然にそれにみあった振舞いができる。それがぜんぜんぴんとこないけれど、他人は自分について何かを思っているということを知識としては知っているから、余計に気になってしまう。だから、相手にくどくどと尋ねたり、冗談で言われたことをそのまま真に受けたりしてしまう。

ちなみに、進化の原動力としては女性的な吟味して選ぶという眼力が大事。孔雀の目玉模様については、ダーウィンが十数ページもさいて考察しているのですが、ようするに普通のまだら模様の中から雌が好みの模様を選び出して品種改良を続けた結果、あそこまでいってしまったと。それが性淘汰です。
2008/01/17(木) 23:15 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

> ダーウィンが十数ページもさいて考察しているのですが、

あ、前に仰っていたダーウィンの本ですよね。読み終わられましたか?
孔雀のことも書いてあったんですか。
やはり孔雀もメスが「危険な香り」がする目玉模様のオスを選んでいった挙句、今のような孔雀になったんですね。それにしてもちょっと派手すぎるな~。

人間は最近男性が女性化しているように見えるけど(問題発言?)どんな進化をしてるんでしょうかね、、、。
2008/01/17(木) 23:38 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

> やっぱりぴんときていないからでしょう。

ええ、結局は重元さんの言われることと同じになると思います。他人の心を気にしてはいるけれど、情報収集の段階で部分的な「見落とし」がある。見落としのあるまま「相手の気持ち」を構成しようとするから、どうにも察しが行き届かない。それで余計、人の考えていることを気にしてしまう。

誰にでも「察しが悪い」ことはある。そういうとき「見落としは無いか」と見直して自分の仮説を修正するわけですが、その再チェックも苦手な感じ。でも「どこを見落としたか」についての情報を補ってあげれば、状況を読むのにそんなに外れることはありません。そういうメタレベルでの「チェックについてのチェック」を身につけていけたら、もう少しは変わってくるんじゃないかな、と思います。難しさはあるけれど、成長しない子どもはいない。

「アスペルガー=相手の気持ちがわからない」という図式が前面に出てしまうと、一緒に「この子の見落としやすいところはどこだろう?」と考える意欲を家族や周囲から削いでしまいます。それが困るし、最近そういう例によく当たります。

> 性淘汰

ここまでの議論をまとめると「男性のファルスは、女性の目である」となりますね(笑)。これは逆説的で真理を突いてそう。「健全なマゾヒズムの成長」というものがあるとしたら、それは「父親の目」から「異性の目」に移っていくことかも。「早乙女愛、君のためになら死ねる」ですね(爆。

2008/01/18(金) 00:41 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

今回はフロアにいる私の一言居士(^^)
2008/01/18(金) 18:27 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

> 人間は最近男性が女性化しているように見えるけど(問題発言?)どんな進化をしてるんでしょうかね、、、。

 いやいや男性はもともと弱々しいもので、強そうに見えるのは虚勢を張っているだけですから、ありのままの姿に近づいているということでしょう。
 「男性が女性化している」という言葉は、なにか残念そうな口調で語られがちのような気がしますが、本当に残念なのでしょうか。男性が強そうな時代や社会というのは、乱世であり、けっこう大変な時が多かったでしょう。
 思うに、これは進化ではなく表現型の問題なのです。男性の方が、時代や社会の状況によって表現型が左右されやすいのでしょう。
 これは、私の仮説ですが、男でも女でも、どういう大人をめざすかは、主に母親によって吹き込まれる。女の子の場合は、母と同姓ですからそのままモデルにすればいい。だから、とても現実的なものをめざすことになる。ところが、男の子の場合は、母親もよくわからないものだから、理想的なことを吹き込んでしまう。息子もそれを本気にして、お母さんの望むような立派な人になるんだ、とがんばるわけですね。
 母が息子に望む理想というもは時代によって変わるのでしょうが、今のような時代は崇高な理想といったものが成り立ちにくいのでしょうね。「一流大学に入って大企業か官僚か医者弁護士をめざすのよ」などと期待されるわけですから。そう思うと、今の子供はやっぱりかわいそうなのかな。

話がマゾヒズムから離れてしまいました。セーイチさん、そろそろまとめを。
2008/01/18(金) 22:43 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

重元先生が書かれている、眼鏡っ娘とエストロゲンの関係は、大変興味深いです。
私は医学全般と精神医学や精神病理学などを勉強してきて、心理学はまだまだです。

巨乳か貧乳かという違いは、ホルモンだけでは説明出来ない部分もあり、
さらに、俗説も多いですが、心理状態とエストロゲン分泌との関係は、かなりありますね。
最近は、DNAや生化学などで多くの事が説明される様になり、要因は複雑です。

乳癌とエストロゲンとの間には、ある種の関連がありますが、最近は乳癌遺伝子が、
血液検査のみで手軽に測定可能となり、診断補助として重視されますが、
考え始めると、要因は複雑かつスパゲティ状態です。
実は、これは、巨乳とも関連します。

エストロゲンに関する着想を、色々な実例に照らし合わせて、冗談で検証してみたいと思います。
2008/01/18(金) 23:54 | URL | ヤキソバ # TpxBOJeA [ 編集する]

>話がマゾヒズムから離れてしまいました。セーイチさん、そろそろまとめを。

特にテーマに沿わなければ行けないというブログでもないですし、連想が沸くのであれば、ドンドン離れていってもOKですよ。

でも、こういうメタサイコロジカルな論文って正直、あまりわからないんですよね~(^^ゞ ピンとこないというか。

「根源的なマゾヒズムは皆もっている」と言われても、自分の臨床の中ではそこまで「そのとおりだ!」と実感できるまで行けてないので(^-^;A

だから、あまりコメントできなかったりしていたの(笑)
2008/01/19(土) 00:06 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

>ぽっきさん

>「男性のファルスは、女性の目である」

短ッ!でも綺麗にまとまっていますね~。

>しげもとさん

>いやいや男性はもともと弱々しいもので、

そっかー、じゃあやっぱり「男性の方が女性より女性らしい」で良かったんだ(笑)。
わたしは女性がそんな「女性らしい」男性を求めていった結果「女性らしい」遺伝子を持った男性が増えたんじゃないかなって思っていました。性淘汰で。
「戦国の世」とは程遠くなりますもんね。

>ヤキゾバさん

それから、巨乳の話ですがエストロゲンと乳癌の関係ってどのようなものなんでしょうか。
女性にとっては非常に身近なことなので心配です。

>セーイチさん

じゃ、まだまだヘンな連想をしてみましょうか(笑)。
2008/01/19(土) 00:24 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

ゆみっちょん♪ 先生、おおきにっ。

女性の更年期およびそれ以後は、様々な更年期障害の症状が出やすいです。
頭髪が抜けたり、ダミ声になったり、不眠、抑うつ、頭痛などが代表的です。

それに対して、エストロゲンなどの女性ホルモンによるホルモン補充療法が
行われる事があります。年齢により減ってきた女性ホルモンを体外から補うのです。

この治療法は、かなり有効だとされていますが、乳癌の発生率を高めてしまいます。
この事は、女性ホルモン補充に伴う、重大な問題です。

更年期前の時期では、初産年齢なども重視されます。
女性ホルモンと言っても単純ではありませんし。

巨乳と乳癌との関係というのは、不勉強のため、申し訳ないながら知らないです。
ただ、乳癌の最大の危険因子は、喫煙(受動喫煙も含む)である事を重視して下さい。
乳癌に関しては、喫煙は乳癌遺伝子よりも、大きな危険因子です。
2008/01/19(土) 02:09 | URL | ヤキソバ # TpxBOJeA [ 編集する]

 私が人にいわれて一番嫌いなのは、「そんなにほめられたいのか」という言葉。

 ほめられて、何が楽しいの? と、キョトンとする私。そんなの、一銭にもならないしね。

 スポーツ選手も、みんな、「自分に」ほめてもらいたくて、がんばってるだけと思う。

 「殺してやる!!」なんて怖くも何ともない。

 そう言われた時に、私が答えることにしている言葉。

「単に殺すなんてもったいない。

 食べなさい私を!!

 地球環境保護のために、人類みな互いに抱き合い、互いを食べあおう!!

 さあ、ご一緒に!!

♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー
♪いざ、お・い・し・そ・にーーー


(マジ、混成四部合唱の譜面あります。大学生時代の作曲。....想像できるでしょうけど、ヘンデルのハレルヤ・コーラスみないな曲で、祝典的な行進曲調で、バスドラムの響きとチューバの響きがもんのすごいの!!)

 まー、「食えよ、おいしそうに」の一言で止めておく方が、実用的には、不良もアブナいと思って逃げ出すでしょう。

 さもなければ、相手の口に靴先から押し込んで「それ食えよ」で、あごを外してあげます(^^)

......という「白日夢」を、むかつくたびに、毎日最低二回はしているのが私の精神的健康の秘訣(^^)

 .....ちゃんとテーマに沿ってるでしょ(爆)


 ようするに、私は、ほめられるより食べられたい。


****


 これって、実はすごく普遍的な感覚ですよね!!

 「これは、私の肉である」

が世界宗教の奥義なんですから!!


 お釈迦様も虎に食べられた。
2008/01/19(土) 02:09 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

皆様、こんにちは。
僕だけが少しずれた視点からコメントをしているようにも思ったのですが、まあ、自由連想をしても良いようなので、もう少し書いてみます。

>とはいえ、この方法を採用したフロイトとしては、視線恐怖が理由だろうと思います。彼は、ずっと広場恐怖に苦しんでいたから。毎日毎時間、患者さんの視線に晒されてたら、自分の身が持たない。

フロイトがカウチ設定を用いたのは、非常にパーソナルな理由、しかも、フロイトのマゾヒスティックな理由からなんですよね。そして、カウチ設定自体が、患者にとっては見ること(ペニスを用いること)を去勢され、身体的には拘束されるというマゾヒスティックな設定です。

また、今日でも精神分析では、このフロイトのパーソナルな理由から生まれたカウチ設定を頑なに守っています。重本さんがおっしゃる通り、何かの教条に従うこともマゾヒズムの一つの現れとすれば、精神分析を行うこと自体が、一つのマゾヒスティックな行為なのかもしれません。

マゾヒズムには、何か人の本質的な在り方があるのかな、などと連想していました。
2008/01/19(土) 13:19 | URL | のん # - [ 編集する]

ヤキソバさん、ご回答ありがとうございました。

>この治療法は、かなり有効だとされていますが、乳癌の発生率を高めてしまいます。

あ、以前に聞いたことがあります。最近は更年期の低年齢化も問題になっているみたいですが、ホルモン治療はちょっと怖いなぁと思います。喫煙も、わたしはタバコを吸ったことがないのですが実家の父がヘビースモーカーなので、受動喫煙してしまうのが心配です。子どもも煙を吸ってしまいますしね。孫が生まれてからは、外で吸ってくれるようになったんですけどね。でも、そういう理由があって実家に子どもを連れて行きにくいな~、なんて思っています。

>こういちろうさん

あはは、いいですね~!
是非是非、その歌を録音してブログにupしてください♪

イエス様も「わたしの肉を食べなさい」とか言ってましたよね。
そういえば、人類の3つの「タブー」として「共食い」「近親相姦」「親殺し」だったかな?
フロイト本に引用されていたような気がします。たしか「夢判断」の中に。
でも昔からよくありましたよね、こういうこと。中国では「人肉」を食べるのなんてあたり前のように行われてきたのでしょう?ヨーロッパの方もそうでしたっけ。
まあでも、その「タブー」を犯すから興奮するのかな。これも、マゾヒズム×サディズムですね。

>のんさん

はは、何でも開祖は強いですね。そんなフロイトの都合が今でも適用されているだなんて。
ユングは対面式を採用したみたいですが、確かに面と向かって自由連想とかってやりにくそうだし、やはり「無意識」の領域に近づくには対面式じゃない方が雑念が混じり難くていいかな~なんてわたしは思ってしまいます。
それにしても、精神分析自体がマゾヒスティックって面白い発想ですね。


2008/01/19(土) 14:33 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

>イエス様も「わたしの肉を食べなさい」とか言ってましたよね。

最期の晩餐ですね。それをモデルにして、キリスト教では聖餐式という儀式があります。フロイトは、これをトーテム饗宴ととらえています。そして、トーエム饗宴とは、原父殺害後に息子たちが父の肉を食ってしまった行為を記念する儀式であると。こうして、父を同一化して超自我ができたというわけですね。
2008/01/19(土) 18:23 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

こういちろうさんの白昼夢を見て連想したことですが、マゾヒズムには「もしそれが達成されなかったら、何かが不快になる」という根源不快が隠れているのかも知れないなあ。その不快を避けるために、あれこれマゾヒズムを駆使して「心」なんてものを作り上げてしまう。つまり「おいしくない」と言われたら凹む、ってことですね(笑。

それと、トーテムまで考えるのだと、バタイユのようにマゾヒズムを「蕩尽」に繋げるべきかもしれません。どの文化でも、必要以上に物を生産し「祭り」でその全てを破壊してしまう行事がある。ポトラッチのように、自分の家族を殺していくことさえする。すると段々と恍惚状態に入っていきます。快楽とは浪費そのもの。それまでの労働を一挙に無意味にしてしまう無駄遣い以上の楽しさはない(しかも、そういうときは我を忘れている。笑)。

バタイユの人間観が、マゾヒズムを身に感じるには最短距離のように思います。

2008/01/19(土) 21:12 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

>これをトーテム饗宴ととらえています。

「トーテムとタブー」ですよね。実は未だ読んでないんです。
父親を同一化して超自我を形成するってことは、父親不在だとか、父親が酒乱であるとかだと、男の子の場合は適切なモデリングが出来ずに右往左往しそうですね。その場合は母親と同一化してしまうんでしょうか。
レオナルド・ダヴィンチのように、同性愛者になりやすかったりするのかな。逆に、母親が心的に不在で、父親が母親役であった場合はどうなんだろう。逆エディプスになってこちらも同性愛になりやすかったりするのかな。あ、初歩的な疑問でスミマセン。

マゾヒストじゃなくてもたまに自虐的になったりしますよね。
そんなときが一番身近に感じます(笑)。
2008/01/19(土) 21:55 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

原父殺害は「トーテムとタブー」ですが、これを超自我と結びつけたのは「集団心理学と自我分析(1921)」です。
ゆみっちょん♪さんは全集17巻読んだとおっしゃってたから、読んだかな。

原父殺害以前は、超人みたいにすごい力を持った首領が群れを支配していて、他の男はグーの音も出なかったんです。
で、ある時、この息子たちが協力して首領を殺してしまった。
弱い者が強い者を殺しちゃったから、その後首領の座につく者はいないし、殺した首領の霊が祟ってくるんじゃないかと心配になるし。
そこで、原父のことをトーテムとして祀りあげ、原父の特権だった近親相姦には手をださないでおこうと、息子たちは取り決めたのです。
スーパーパワーをもった首領はいなくなった代わりに、人々はそれぞれの心の中に原父をいだくようになり、それに服従するようになった。
この「心の中の原父」が自我理想(超自我)です。
トーテム饗宴は、崇めていたトーテム動物を祭りの時に殺して食べてしまう儀式。この中に、原父の殺害と原父の取り込みという歴史的事件が反復されているのですね。

個人における超自我の形成過程は、直接的な両親の同一化によります。それに、超自我の基盤自体は遺伝とか文化によって継承されているから、個人の家族事情にも影響はされるでしょうが、父親不在であってもなんとかなるのでしょうね。
2008/01/19(土) 23:06 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

 皆さんの議論、ほんとに楽しく読まさせていただいてます(^^) 

私は、このエントリーはひたすらトリックスター(道化)でいきます!!


>ぽっきさん

> つまり「おいしくない」と言われたら凹む、ってことですね(笑。

そそ。

「おいしいと言いなさい!!
 それ食えやれ食え!!」

皆さん、「強飯(ごうはん)式」って、ご存知ですよね(^^)

 説明するまでもなく、究極のサド/マゾでしょう。

エヴァンゲリオン(旧劇場版)でいえば、

♪私に帰りなさい
(魂のルフラン)

ではなくて(爆)、あなたに食べられることで、「あなたを」内側から「乗っ取る」ぞ!! という呪詛です(^^)
2008/01/20(日) 14:06 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

そういえば、摂食障害の人って、家族が実は不和で、食卓に暗黙のすごい居心地悪さがあるのに、

「きちんと残さず食べなさい」
「ごちそうさまは?」

といわれて育った人に多い、という、ややステロタイプかもしれない説、すべての人にはあてはならないとしても、ある程度の「大づかみな」アセスメント仮説「のひとつ」ではありますよね!!
2008/01/20(日) 14:12 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

> 原父殺害は「トーテムとタブー」ですが、これを超自我と結びつけたのは「集団心理学と自我分析(1921)」です。

タイトルは知っているので、読んだかもです。でもなんか、内容は良く消化できてないんですよね。フロイト全集17巻に載ってるんですか。再度チェックしてみます。

> こういちろうさん

> そういえば、摂食障害の人って、

それは食べたくなくなるでしょうね、、、。
2008/01/20(日) 15:33 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

> 「大づかみな」アセスメント仮説

そうした仮説の意味は大きいですよね。今のマゾヒズムもそうだけど、フロイトがやろうとしたのは、「異常」とみなされることを「正常心理の延長上」に置き直すということじゃないかと思います。そうすることで「共感」ができる。推敲しながら、セラピストとの間で共有できる「仮説」にまで仕上がれば、クライエントはもう「コンプレックスを受容できる状態」に変化してますから。

精神分析の治療プロセスを素描すれば、以上のようになるかと思います。

2008/01/20(日) 16:26 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

>ぽっきさん

>推敲しながら、セラピストとの間で共有できる「仮説」にまで仕上がれば、

この、クライエントさんと「共有できる」仮説、という点が鍵かと思います。

 ですから、フロイトの言うことをセラピスト自身が「共有できる」「共感できる」とほんとに感じられないうちはいよいよ臨床現場では使えないことは言うまでもない。

 セラピスト側が「フロイトがいうことだから」で留まっているのなら、「先生が言うことだから」といい子になるクライエントさんを、いい子ちゃんの人形のように「作ろう」とすることになる。

 フロイトはそれに気がついていたからこそ、「陽性転移」が生じたあと、セラピストへの「脱錯覚」「幻滅」としての「陰性転移」になるという「大づかみな仮説モデル」を作った、ともいえますよね。
2008/01/20(日) 22:01 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

> フロイトがやろうとしたのは、「異常」とみなされることを「正常心理の延長上」に置き直すということ
さらに言えば、「正常」といわれる心理状態が、いかに隙だらけで統合されていないものかということを強調しています。

フロイトは、疾患を生まれつきの脆弱性のせいにして事足りとするような考え方が嫌いだったようですね。
そういう要因があることは認めるが、その人を疾患にまで導いたのはある種の葛藤であり動機づけである。
逆に言えば、どんな人でも強い動機づけがあれば、簡単に心の平衡を失ってしまうような脆弱性をもっていると。

フロイトが診ていたある女性患者さんが、バセドー病で亡くなってしまった。
彼は、それは自分の治療がまずかったせいではないかととても気にしていた。
数年後に、その亡くなった女性が目の前に現れたんです。
フロイトは、「死者がよみがえることができるというのはやっぱり本当なんだ」と信じてしまったそうです。
実は、その女性はそっくりの妹だったのですが。
合理的な考え方をしていると自認しているような人でも、強い動機づけがあれば非合理的な考えを容易に受け入れてしまうものだということの一例としてあげています。(「グラディーヴァ」)
2008/01/20(日) 22:55 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

>重元さん


ちっと前のコメントに話が戻ってスミマセンが、

>統合失調症の眼球運動の研究で、なんかS字型みたいの図形を見せて目の動きを計測するというのがありますね。
>統合失調症では探索的な眼球運動がおちているというのですが、あれを見ると普通の人がいかによく目を動かしているかというのがわかります。まさに、曲線を愛撫するように見るわけです。

 よく、対人恐怖の人が、「自分が目を向けると相手が目を必ずそらす」と思い込んでいるのは、実はものの見事な「自己成就的予言」なんですよね。

 つまり、普通の人は、相手と目が一瞬あってもすぐに別の場所に眼球運動する「注意欠損障害(ADHD)」状態なのに、対人恐怖の人だけが「注意欠損障害」はない(爆)。

 そうなると、見られた側の人にとっては、「いつまでも自分を見つめている怖い奴」となって、極端な場合には、対人恐怖の人から「逃げ出して」くれまでするのです(^^;)

 こうして、

「対人恐怖の人」=「対人的に恐怖を与える人」

....という、語呂合わせどころではない、逆説的真実があると思います(^^;;;)

 こうして、対人恐怖の人は、対人恐怖であることによって、「こわーい人たちを実際に寄せ付けない能力」を発揮して、社会に「棲息」できる環境を、みずから切り開いているのでありまする(?)。

2008/01/21(月) 00:40 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

こういちろうさんへ

そうですね。フロイトの理論自体が、フロイトがクライエントとの間で共感・共有してきたものの「結果」だろうと思います。彼はそうだった。では、僕はどうなんだろう? 僕はどこでどんなふうに共有していけるだろうか。そう考えて臨床しないと、これは活きてこないですね。

陰性転移の話も、そうですねえ、依存→反発→共有→自立という4つのステージがあるのかも知れません。陽性転移が依存ステージで、陰性転移が反発ステージ。そういうことをフロイトも、口唇期・肛門期・男根期・エディプス期で表しているように思います。母子関係はメタファーであり、主眼は分析家=被分析者間での関係性。ビオンの3つの基底的想定(依存・闘争・番い)も、同じ形のものでしょう。


重元さんへ

「グラディーヴァ」は、フロイトにしてはロマンチックな論文だな、と思った印象があります。あれは「鎮魂歌」だったのか。もしかしたら、その女性に彼は恋していたのかも知れないですね。

重元さんに言われて思ったのですが、フロイトの良さは「そこ」ですよね。「人間誰もが弱い存在」というメッセージが根底に流れています。病気にならずに済んでいるのは、たまたまのこと。他の分析家だと「私は超人」みたいなノリで書いてるようなことも、フロイトは「自分にもそんな弱いところがある」という話で論を進めていく。そのメッセージ自体が「共感的」に思います。凡人に寄り添ってくれている。

2008/01/21(月) 00:41 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

むしろ、「注意欠損障害」の人は、

「一度何かに注意が向くと、それに注意が集中したままになる障害」

と定義するのが正しいかも知れませんね(^^)

だから、「いろんな視覚上の運動刺激が眼球運動を触発しにくいまま、眼球運動を固定したままでいい」=「高いところから見下ろす」のが好き。

こうして、またもや、かなりよく知られた、ADHDについての「大まかなアセスメント仮説」が意味を持つのでは?

 広汎性発達障害の人や統合失調症の人、対人恐怖の人にもあてはまる、容易に実証研究可能な仮説にまで高められるのかなと思います。
2008/01/21(月) 15:42 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

こういちろうさんへ

ADHD(注意欠陥障害)は治療薬としてリタリンが使われることからしても、注意があまり集中できないものだろうと思います。1つのことを始めても、すぐ別のことが気になって、そちらを始めると最初のことは忘れてしまう。かといって、新しく取りかかったこともすぐに別のことに注意が振り返られています。アスペルガーの人とは違い、ADHDの人から「人からどう思われているか」という話を聴くこともあまりありません。どちらかというと、「達成感の無さから自己評価が低下し、抑うつ的」というのがADHDの人がカウンセリングに来る動機のように思います。

で、僕とすると「こうしたものが障害なのだろうか」という疑問はあります。アスペルガーの人は粘液質の文脈で、ADHDの人は多血質の文脈で話を聴いて、その環境との「ズレ」を見ていくほうがアプローチの余地があるだろうと思う。「夜になると暗くなる」という時代ではなく、昼夜を問わず刺激が押し寄せてきてる。相互作用の起こらない「テレビ」というメディアがある。そこに、一方的な「情報の波」から逃れるために安心できるモノにしがみつく適応方法と、「波」に飲まれて身を任す適応方法があるだけじゃないか。

2008/01/21(月) 20:47 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

なんかこういちろうさんの説を読むと「注意欠陥障害は注意が集中したままになる障害」と仰っているけれど、ぽっきお兄さんの説では「いやいや、注意があまり集中できないものだ」と仰っている。同じことを見ているのに180度違いますね。
ちょっと混乱だ~。

前にうちのお師匠様(神経科の先生)は「ADHDは高次中枢機能不全で、リタリンは、中枢賦活作用によって、個々の能力を統合する前頭葉連合野の機能を高めて、周囲の状況判断が可能になることをねらったお薬です。」って言ってたんだけど、これってやっぱり注意がシフトしやすいって事ですよね。

眼球運動とADHDの関係も興味深いです。日本では眼球運動の研究って「ニホンザル」とか「アカゲザル」を使った研究がメインだけど、NIHのNational Eye Instituteでは人間を使って実験をやってました。目にコイル(アイコイルといって、大きなお皿みたいなコンタクトレンズ)を入れて。めちゃ×②痛そうだった(@_@)
2008/01/21(月) 21:29 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

>ぽっきさん、ゆみっちょん♪さん

>1つのことを始めても、すぐ別のことが気になって、そちらを始めると最初のことは忘れてしまう。かといって、新しく取りかかったこともすぐに別のことに注意が振り返られています。

この傾向は、今の私にもあるかも.....

さっきしまった切符をどのポケットに入れたか2分後に探し始めて5分かかることにいつも苦しんでいる(^^)

ただ、私は、その直前に注意を向けていたものに数分以内に戻れるように、フォーカシングで自分を調教したんですよね(^^)

 この観点からすると、いわゆる「強迫性」とは、ADHD的な面を現実適応させようという自我の必死の働きなのかな....などと考えてみるとおもしろいかもしれません。

 更に、ぽっきさんのいう「刺激過剰社会」の観点からすると、「ジャングルジムの上が好き」で有名なADHDの子供たちは、やはりそういう過剰刺激から距離を置きたいのかもしれませんね。

 あるいはいろんなものに次々注意を向けられる刺激が快感なのか。

 いずれにしても、

 多血質=ADHD
 粘液質=アスペルガー

そして、

>その環境との「ズレ」を見ていく

という、古(いにしえ)に帰る発想は興味深かったです。

その一方、生得的な認知特性の違い、という観点も、まさにそういう障害の人に「共感するのにぴったりなメガネ(レンズ)」として有効利用できるかもしれません。

中井久夫先生の「S親和者」についての「微分的(差分的)認知回路」の発想が、まさにそれだったと思います。

 話が精神分析からひろがりましたので、どなたか、再度テーマ収束のきっかけを作っていただければ(.....と、ADHD指数、数パーセントはある私は、他の皆様に任せてしまう ^^)

 この世には、ADHD的かつアスペルガー的な人もいっぱいいいる(だからこそ「自閉症スペクトラム」とか「広汎性発達障害」の概念が必要になった)あたり、厄介ですけど(^^)
2008/01/21(月) 21:42 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

こういちろうさんや、ぼっきさんのお話からの連想ですが。

注意には2種類あるのかもしれない。
自分のやりたいことをする時の注意と。
人からあるいは社会的に「やりなさい」と言われてする時の注意と。
ADHDで問題になるのは、主に後者の注意。
これは、自我が超自我から受ける「行儀良くしろ」というプレッシャーに関連しているのかも。

問題は多くの人が、「行儀の悪い人」を見て不快感を表明すること。
それは、「俺だって窮屈だけど超自我に従っているのに、どうしてお前は」という、嫉妬に満ちたいらだちなのでは。
こうやって周りから怒られてばかりだから、ますます心がすさんでしまう。

フロイトはさすがにADHDのことは言ってませんけど、「罪責感から犯罪を犯す者」というのは、ちょっと近いかもしれないなと思います。

それと電車のことですけれど。
考えてみると、電車の中というのは、なんとも妙な状況ですね。
赤の他人が、狭い部屋に、高密度で閉じ込められる。
他人だから、視線を合わせてはいけない。
でも、あの人のことも、この人のことも気になるなあと。

視線恐怖とはまた別の問題ですが、痴漢の問題。けっして弁護するわけではないけど、普通の友人程度ではしないような至近距離に他人同士が近づくという妙な状況にひとつの要因があるのではと。
恋人どうしではないけど気になるくらいの異性と、一緒に満員電車に乗るという状況を想像したら、萌えるなあ。
2008/01/21(月) 22:27 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

あと、「注意集中」と、「認識の上での統合」は全く別の働きで、「対象の対象化」とでもいうべきメタな視点がその人にないと、統合されないと考えてみると、ADHDも、アスペルガーも、統合失調症もそのバリエーションという、壮大な(?)理解も可能かと思います。

>重元さん

 カウンセリング空間が、もの凄い転移/逆転移空間になるのも、「ふたりきりの密室で1時間も話をする」ということの必然かもしれませんね(^^)

 うまくいくと、セラピストも、クライエントさんも、そこでものすごく濃密な恋愛修行をしているのかも。

 はじめて本気で恋愛に一歩踏み出す女性クライエントさんをみていると、そうとしか思えなくなる。

 その時、「少し」傷つくのは、セラピストの健全な逆転移!!
2008/01/21(月) 22:38 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

> 恋人どうしではないけど気になるくらいの異性と、一緒に満員電車に乗るという状況を想像したら、萌えるなあ。

説得力があるお話で大変興味深く読ませて頂きましたが、最後、噴きました。
2008/01/21(月) 22:38 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

こういちろうさん、重元さん、ゆみっちょん♪さんへ

僕のモデルの中では、アスペルガーとADHDは重ならないのです。なんでかなあ、と考えてみましたが、たぶん大学院生のころ「微細脳損傷を抱えた子ども」とのプレイセラピーを何例か担当していたからですね。「微細脳損傷」の診断名自体は(そうした脳損傷が発見されるわけも無く、また脳損傷を負うた実験動物が多動性を示すことも無く)やがて廃れていきました。代わりに使われ出したのが、今の「注意欠陥・多動性障害」だと思います。

で、「微細脳損傷」の子たちとのプレイで特徴的なのが「好きなことでも続かない」なのです。ころころと遊びが変わっていき、盛り上がっている途中で(何の前触れも無く)別の遊びに移っていきます。あれは不思議な感覚でしたね。それでいて、一つ一つの遊びは面白いのです。インスピレーションに富んでいる。「へー、ほー」と驚かされます。美味しいところだけつまみ食いしていく感じ。それに対して「アスペルガー症候群」の子どもの場合は「前回のプレイの続きからプレイが始まる」という感じでした。(今は懐かしい)スーパーカーのスペックを延々と暗唱させられる。僕に「覚えろ」と言い、時間の終わりに「小テスト」される。これを繰り返しているうちに、「一緒にスーパーカー・ショーを見に来ている場面」の見立て遊びだと見えてくる。長い目で見ないと、今何をしているのか見えてこない。そんな感じでした。

当時、紀要にまとめたときは、マイクル・バリントの『スリルと退行』を援用したように思います。今のテーマに戻ってしまいますが(笑)、彼は「死の欲動」に対する乳幼児の防衛機制を2つのタイプに分けています。オクノフィリアとフィロバティズム。オクノフィリアは、新規場面を避けて「死」との直面を徹底的に回避するタイプ。「ライナスの毛布」を手放せない子ども。知識を呪術として溜め込んでいく。それに対してフィロバティズムは、積極的に「死」のなかに飛び込んでいって、それを克服することを喜びとするタイプ。将来は登山家になるかヨットで太平洋横断。「冒険こそ命」な人。

たいていの人は、その2つの防衛を混合して使いながらエディプス期へと突入していくのですが、その片方だけで押し通してしまう人もいます。そのオクノフィリアが「アスペルガー障害」で、フィロバティズムが「ADHD」。そう見ているので、この2つが重なることはありません。DSMで診断すると、あれは「見かけ」だけ問題にして「根底」を考えない診断法だから、重なって見えることもあるだろうけれど、「好きではないことを強要されたとき多動になる」くらいのことなら、僕は「オクノフィリア」と見ます。

2008/01/22(火) 00:30 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

> 重元さん

> けっして弁護するわけではないけど、普通の友人程度ではしないような至近距離に他人同士が近づくという妙な状況にひとつの要因があるのではと。

「意識しないようにするからこそ意識してしまう」っていうのもあるんですかね。強迫観念に近いものも感じます。普段は犯さないパーソナルスペースに必然的に入ることにも関係があるのかな。どちらにしても非日常的なシーンですからね。萌えるのも分るような分らないような?

> こういちろうさん

> うまくいくと、セラピストも、クライエントさんも、そこでものすごく濃密な恋愛修行をしているのかも。

なんかいいですね~こういうお話(^o^)丿そういえばぽっきお兄さんもサイトに書いていらしたけれど、フロイトの「転移性恋愛」の論文のお話を思い出しました。その人の恋愛する能力を引き当てるっていうやつ。濃厚な信頼関係を築き上げるのですから、恋のようで恋ではない、微妙なところですよね。でもその転移を起こすのにも才能がいるんだろうなぁと思います。その人の心の(お互いに)近くに行くことが出来なければ「逆転移」や「陰性転移」なんてなかなか起こらないんじゃないかなと思います。
2008/01/22(火) 01:13 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

>ぽっきさん

....ああ、私とぼっきさんの間の最大の「鬼門」に踏み込んでしまった....という思いがあります。

 私にとって「スリルと退行」ではなくて、後に出た「基底欠損(邦訳タイトル「治療論からみた退行」)は、ジェンドリンの「人格変化の一理論」とならぶ、ほとんどそらんじている域の、超別格扱いの「聖書」だったりして....

 私の方も、バリントで学会発表しちゃった人間で。

 結論から言って、

>オクノフィリアが「アスペルガー障害」で、
>フィロバティズムが「ADHD」。そう見ている


 この段階で、もう、少なくとも、著作「基底欠損」の段階のバリントからすれば、なるほど「比喩的には」わかるけど、正確には「誤読」になってしまう!!

(スミマセン、珍しくはっきり断言してしまいます^^;)

 つまり、精神医学の通常の共通語に翻訳すると、

「オクノフォリア」=「重度の境界性人格障害『的』な状態にある人」
「フィロバティズム」=「重度の自己愛人格障害『的』な状態にある人」
(正確には、マスターソンが、著作「自己愛と境界例」の中で、激越なコフート批判として鑑別した、「矮小な『真の自己』に気づくことへの防衛として形成されたにすぎない『自己愛』性をあくまでも「境界性人格障害」に含めても残される、マーラーの言う「再接近危機」ではなくて、「練習期」ですでに固着したと診断できる人たちのみを指す)


 .....というのが、恐らく「近似値的で無理のない(good enoughな)アセスメント」になっちゃうので。

そして「人格障害」ではない、あるいはそれは「二次症状」に過ぎないとはっきり鑑別できる人たちの中から、はじめて、ADHDやアスペルガーなどの「広汎性発達障害」の診断を下すべき、という点は、どうにもこうにも断固として譲れません(^^)

 私も大学学生相談で、高機能アスペルガーないし学習障害を疑われる事例と長期間関わり、それについてケース報告をした、という点では、大学学生相談の領域では先駆のひとりだったりします。

(そのように診断できることを私に示唆した最初の人物は、私の不在時に代理でその学生と面接した、私の部下の、子供のスクールカウンセラーこそが専門という非常勤の人だった、という点は何ともはや示唆的ですが)。

そのカウンセラーがいなければ、私はうっかりその学生を「境界例」と見立てたままになるところでした。

 ちなみに、その時の講師の精神科医(大学学生相談業界で、はじめて、大学全入時代には高機能自閉症の学生への対応が、本格的に必要な時代になるという「予言的」警告を紀要に掲載した、慶応大学精神保健センターの精神科医)から正式に得たのが、まさに「上述のどちらかの疑いあり」という診断名でもありました。

 その後もその学生と休職まで関わりましたが、今にして振り返ると、いや、むしろ「ADHDと学習障害のどちらかというのが正しかった気がしてなりませんが。

 敢えて言えば「学習障害」メイン、弱度のADHDでもあると位置づけるしかないでしょう。


*****


 私の考えでは、バリントは、ウィニコットと異なり、「児童精神科医」としての臨床経験は皆無に近く、あくまでも、成人の「オーソドックスな精神分析が効果を上げない」人たちについて、フロイトやクラインの理論への生涯をかけた批判をして、独自の考えに至った人だと思います。

 そして、少なくとも「スリルと退行」から年月を経て、「基底欠損」を書いた時点でのバリントには、もはやオクノフィリアとフォロバティズムを対立的にとらえると言うより、


1.「オクノフィリアの内包するフィロバット性」「フィロバットの内包するオクノフィリア性」への視点が非常に明快となり、

2.このふたつをむしろ共通的にとらえる視座として、中井久夫先生の空前の超訳として知られる、「調和的=相互浸透的渾然体」としての「前ー対象関係」を置いた。

3.そして更に、これを、一般の人にも内在する「オクノフィリア性」「フィロバティズム性」への退行可能性にまで拡張した。

4.その結果、クラインの発達理論における「分裂的妄想的態勢」と「抑鬱態勢」が、人間が生涯繰り返し入れ替わって体験するポジションであるというふうに理解された(松木邦裕先生がまさにその権化だということを知らない精神分析プロパーの人はいないでしょう)のと類似した形で、オクノフィル的治療関係とフィロバット的治療関係をとらえ、

「ややフィロバティズム的な治療者の態度がオクノフィルにも必要だろう。度が過ぎてはいけないが」

という示唆を最後にして、「基底欠損」の筆を置いているわけです。

5.そもそもバリントの言う「前-対象関係」には生も死もないと思います。 

 なぜバリントは「再生」とは言わず、"new beginning"と書き、その"new beginning"を中井先生が「新規まき直し」などという超訳で、わざと婉曲に訳したのか。

それは、オクノフィルにしてもフィロバットにしても、そもそも「この世に生まれていない」というか、胎児にとっての羊水や子宮や母胎のような「相互浸透体」のままの「前・対象関係」にいるわけです、それを「死への跳躍」であるととらえた時点で、すでに「通常の成人から見て」そう見えると言うことに過ぎない。

 地水火風、すべてが「友好的な環界」なんですね。だから死ぬことはないと「感じている」、それでレーサーや探検家や曲芸師になれる、というのがバリントの趣旨の筈です。

 つまり、バリントは、そもそもエロスとタナトスの対立図式を超越してもいた。

 「オクノフィリア」「フィロバティズム」のどちらにも、ギリシャ語の「愛する」を意味する「フィル」という言葉が含まれている。 

 ここにバリントの人間観....クラインはなぜか捨象した、故国ハンガリーの東洋性があり、この点では、ウィニコットを含むすべての対象関係学派を超越したルーツがある、というのが適切な評価でしょう。

 同じアジアでも、突然のスコールに襲われるインドをアイデンティティの根幹に置いたビオンが、全く別の意味でヨーロッパを超越しているがゆえに時と共に日本でも評価が上がったのと、ちょうど対照的かと思います。

ちなみに、バリントも「基底欠損」の中で、ビオンを引き合いに出し、αとβのあの分け方が、自分の言う「通常の成人言語水準」と「基底欠損水準」の区分に似ていることを積極的に評価しています(まだビオンが日本で知られる以前の中井先生の訳では「バイオン」となっています(^^)


*****


....スミマセン、ぼっきさん、ちょっとこの件ではアサーティブに徹させていただきました。


私の学会発表時の配布資料のpdfファイル(私のサイト)へのリンク:

http://www.asahi-net.or.jp/~tn7k-asg/jhp21asegabalint_2.pdf



2008/01/22(火) 03:01 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

同一のものに固執する態度と、新奇なものを求める態度とは、はたして根本的に異なるものなのだろうか。

フロイトが「快感原則の彼岸」で反復強迫を言い出した時、その例として子供の遊びをあげています。
小さな子供は同じ遊びを飽きずに繰り返す。大人に本を読んでもらう時には、少しでも語句が違うと訂正させる。
フロイトは自閉症のことは言っていないが、このような同一性を保持しようとする傾向は、自閉症スペクトラムでより明確に表れているものでしょう。

また、ドンファン型の対象選択、すなわち熱烈に愛して獲得するとすぐに別の対象に向かうような態度については、永遠に理想的な母親像の追求と解釈します。
次々に対象を変えているけれど、同じものを追求している。完全に同じ本質を求めるからこそ、実際の対象は変わってしまうわけですね。

つまり同じものを求める反復強迫が人間の根本的な性質であって、それが形の上での同一性にこだわる態度と表現されるか、背後にある本質の同一性を求めるかという違いなのではないでしょうか。

通常の発達では、物と物の間に様々な連想の橋がかけられる。例えば積み木の破片と自動車が同一のものとみなされるから、「みたて遊び」ができるようになる。ところが、こういう連想や象徴機能といったものが充分に発達しないと、いつまでも形式的な同一性のみにこだわらなくてはならない。それが、自閉症スペクトラムにみられる興味や行動におけるこだわりだと思いますね。

つまり、誰でもこだわるけど、こだわりかたが違うだけだ、ということ。
2008/01/22(火) 23:03 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

いえ、鬼門だとは思いませんよ。こういちろうさんの胸を借りるつもりでガンバります(笑。

バリント自身は、生得的な要因か環境因かの区別には興味を持ってないでしょう。マスターソンは、分離個体化期に焦点付けようとしてムリをしてると思います。バリントの基底欠損は、1歳以前でも認められるものです(「スリルと退行」p.156で、軽度オクノフィリアの症例について「満1歳までは満足できる関係を共に出来たので」とあることから)。ある程度の生得的な脆弱性と環境のミスマッチとが相まって、オクノフィリア心性が形成される。生得因が強い場合も環境因が強い場合もあるが、それを明確に鑑別できると思うのは不自然なことではないでしょうか。いつも混合している状態になっている。「二次症状」と見なすのは理念上の話で、アスペルガー障害の人の「気持ち」に共感する仮説として「オクノフィリア」を用いるのに不都合があるとは思いません(それとは別に「アスペルガー」という見方にプラグマティックな有用性があることは認めます。治療的な関わり方の幅が広がるから。でも、内界への共感を促す概念ではない)。

それと、境界性人格障害と自己愛性人格障害との関係、「あ、ほんとだ」と思いました。1958年の段階でバリントがこの2つを知ってるわけはないんですけど、先見の明があるというか、すでに考察済みというか。その上、マスターソンならRORUとWORUの揺れ、コフートなら理想化転移と鏡転移の揺れがありますよね。それはオクノフィル的治療関係とフィロバット的治療関係の入れ替わりで治療プロセスが進行していくことを示してそうです。後の時代はバリントの掌の上で踊ってるわけか。

あと、「死」の問題はそうですね。僕の勇み足でした。バリントが問題にしてるのは「空間」。ちょうどビッグバーンによって、凝縮したエネルギーの塊が真空によって分断された「宇宙」になりように、自他未分化な調和渾然体が「自己と対象」へと分節化される。そのときに自己と対象の間に入り込む「間」というもの。それに対する反応として、オクノフィリアとフィロバティズムの違いが生じる(重元さんを誤解させてしまいましたが、ドンファン的に新しい対象を求め、同じ関係を反復する場合もオクノフィリアです。対象が無くても、その真空状態に「愛」を感じることが出来るのがフィロバティズムでした)。

確かに、対象を対象化しようとする「西洋的・科学的視線」とは違い、対象との間に先天的な繋がりを見ようとする「東洋性」がありますね。まあ、そうでないと「なぜ、私とあなたとで気持ちが通じるか」というセラピーの根底が成立しなくなりますが。その点が、科学的であろうとしたフロイトへの批判なのでしょう。だから、こういちろうさんの「前・対象関係には生死はない」は分かるんですが、オクノフィリアが問題になるのは、そこから「出た」ときのことと思います。「対象」が出来たときへの反応。バリントは「間」を論じつつ、「そこに破壊を見ても良いが、私は敢えてそれを愛と見る」みたいなことも書いてあります。ここで「調和渾然体の破壊」と見てくれてたら、僕の中では一貫性があるんだけどなあ。でないと、クライエントが「何」に恐怖しているかへの共感が鈍ってしまう・・・。

2008/01/23(水) 00:52 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

> 対象」が出来たときへの反応。バリントは「間」を論じつつ、「そこに破壊を見ても良いが、私は敢えてそれを愛と見る」みたいなことも書いてあります。

なんかオクノフィリアはもの悲しいなぁ。人を愛するのが「破壊」になってしまうなんて。
でもちょっと思ったんですけど、スキゾイドの「対象破壊性愛」に似てるような気がする。
バリントさんは「甘え」理論の先駆けのような人でしたよね、確か。
2008/01/23(水) 22:07 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

>ぽっきさん

>バリント自身は、生得的な要因か環境因かの区別には興味を持ってないでしょう。マスターソンは、分離個体化期に焦点付けようとしてムリをしてると思います。

 そうでしょう。ただ、私は敢えて生得的なものがある可能性を積極的に論じないと、クライエントさんを余計に苦しめる場合があるという立場です。

 神田橋先生が、なぜ「こころはファントムである」という極論を吐くに至ったのか。それはこころの問題を人の心が解決しようとすることへの基本的な無理への共感から出発していると思いますし。ファントムがファントムを解決しようとすることの基本的な難しさという視点ですね。

 だからこそ、「養生」ということをいわれる。まずは何より、身体感覚的に無理をしなくなることへの原点回帰を強調し、「人間よ、コトバ文化から動物の無理のしなさに回帰せよ」となるのだと思います。

 この超根源的な「心理」主義批判を私はくみ取りたいと思っています。

 単なる「内省」など、何の役にも立たない。関係の中での癒しとは、本質的なところで非言語的なものだと言うこと。

 恐らくこれには多くの方に異論はないでしょう。


>ゆみっちょんさん

>スキゾイドの「対象破壊性愛」に似てるような気がする。
バリントさんは「甘え」理論の先駆けのような人でしたよね、確か。

 そのとおりですね!!

 
2008/01/23(水) 22:35 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

ゆみっちょん♪さんへ

オクノフィリアは依存的なしがみつきによる破壊であり、フィロバティズムは対象を超えたスキルを用いてしまうことによる破壊である。(「スリルと退行」p.108)

前後を読むと、オクノフィルな人は「本当に信用しても大丈夫か」と疑心暗鬼になることで関係性を壊してしまうようです。フィロバットな人は関係性を壊しても気にしないようなので、それもどうかと思いますけど。スキゾイドについてはp.165で軽く触れて「記述的分類であり、人を治療するには役に立たない」と切り捨ててます。特徴を描き出しただけで、それが治療論に結びついていないなら、バリントは納得しないということです。僕は、似たところを示してるんだと思いますけどね。なかなか厳しい先生だわ。

「甘え」との関連では、バリントの「一次愛」という概念が「甘え」に近い、ということで土居先生がバリントに何度もアプローチし、バリントのほうも「甘え理論」を評価していたようです。「甘え」には、相手の中に「甘えさせてやりたい」という気持ちを引き起こすように働きかける能動的行為の側面があり、この点が「一次愛」では不明確だからです。「甘え上手」な人っているんですよ。これをバリントはうまく説明できなかった。


こういちろうさんへ

> 生得的なものがある可能性を積極的に論じないと、
> クライエントさんを余計に苦しめる場合があるという立場です。

同感です。環境だけで説明をつくなら、人間の多様性を説明することが出来ません。同じ家庭に育つ双子の子でも、それぞれ別々の個性が育つのだから。そういう点でも「人格障害」という考え方は、あまり好きじゃないですね。「親の育て方が悪い」という、世間に有りがちで無責任な言動(つまりセラピストには責任のかかっていない言動)を、回りくどく説いてるだけですから。

画一的な心理主義に陥らないようにするには、僕は「気質論」の復活も要るんじゃないかな、と思ってます。本当は4つでは足りないだろうけど、「人はスタート地点がそれぞれ違っていて、どれも完璧ではなく、どれも欠陥でもない」あたりの観点が要るでしょう。

> 関係の中での癒しとは、本質的なところで非言語的なものだと言うこと。

そうですね。そういう「説明のつかないこと」を扱ってるんだと思います。なんとか出来ることではないけれど、だからといって投げ出してしまってはいけないところ。というか、言葉はいつも「別のもの」を表しています。「このもの」自体を扱うことは出来ない。「このリンゴ」について述べようとしても、「そのリンゴ」や「あのリンゴ」との共通点を抽象して、一気に「リンゴ」という普遍性から見てしまう。「普遍的なリンゴ」というものは存在しないのに。

「リンゴ」という、分かりやすいものでもそうなるのですから、ましてや「この、分からない何か」を言葉にして掴めるわけがありません。これは、ジェンドリンの「ハンドル」に対する批判です。

2008/01/23(水) 22:58 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

> 人間よ、コトバ文化から動物の無理のしなさに回帰せよ

いいですね。
ともかく、言葉によって作られた世界がいかに不完全なものであるか、ということはよくよく認識しなくちゃと思います。
さらに、視覚によって構成された世界がいかに幻影であるか、とまで言うといいすぎかもしれないが、ともかく人間は視覚に重きをおきすぎだということも。

フロイトは「文化への不満」の中で、人間は二足歩行になったことで、知覚における嗅覚の重要性が低下し、代わって視覚優位になったという仮説を述べています。
これはなかなかおもしろい。嗅覚優位の世界というのが、哺乳類の常識でしょう。われわれ人間は、ひどく歪んだやり方で世界を見ている。もっと嗅がないと。
2008/01/23(水) 22:59 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

>こういちろうさん

こういちろうさんとぽっきさんの議論は面白いですね。
「思考タイプ」と「直観タイプ」の違いなんだろうな、、、(笑)。

>ぽっきおにいさん

>相手の中に「甘えさせてやりたい」という気持ちを引き起こすように働きかける能動的行為の側面があり、この点が「一次愛」では不明確だからです。

う~ん、面白いです。
バリントさんはなんか、実際的な人だったんですね。

甘え上手な人って「甘えさせてやりたい」と密かに思っている人を見つけるのがホントに上手いし、上手くアプローチしていきますね。
この点では動物的な勘というか、嗅覚が発達してるんだと思う。

>重元さん

>視覚によって構成された世界がいかに幻影であるか、とまで言うといいすぎかもしれないが、ともかく人間は視覚に重きをおきすぎだということも。

重元さんは、今回は「視覚」にこだわってらっしゃいますね(^_^)
何かそういった本を読まれましたか?
言葉で構成された世界、視覚で認知された幻想としての世界という考えかたに非常に共感を覚えました。
そもそも、わたし達が認知している世界って「虚構の世界」なのかも知れないですね。一人一人にとっては「真の世界」なのだけれど。
だから、相手を知ろうとする努力が大事なのでしょうね。
頭で「考える」じゃなくて本能で「感じる」ってことかな?
2008/01/23(水) 23:45 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

> ぽっきさん

ジェンドリンが言語化を必須と見ているというのは全くの誤解なんですよね。

「あるコトバにならない感じに注意を向け、しばらくそこに留まり味わっていたら、あなたはフォーカシングをしていたことになる」

とはっきり書いています(この部分の翻訳、見事に誤訳です)。

 この誤訳をズケズケと翻訳者である村瀬先生に指摘したから、私は大学院に入れてもらえた(^^)。これ、日本のフォーカシング界の伝説!!

ええっと、「この」感じ、なんというのかな.....と注意を向けただけで、コトバが見つからなくても、その人はいつの間にか変化しはじめる、ということがジェンドリンの一番強調したいこと。洞察の結果の言語化の意味内容や説明なんて「副産物」だとはっきり断言しています。

つまり、ヘビの抜け殻。抜け殻をいくら観察しても、もう今の生きているヘビを見失ってはどうにもならない。「過程」理論とは、そういうことを指します。

だから、絶対に、セラピストは不器用な後追いとしての共感しかできない!!

 ジェンドリンが「行為」ですら象徴化だ、と言った意味は、そう理解してはじめてしっくりくることです。

 つまり、ニオイを味わうことがすでに変化なのであって、どんなにニオイかの言語化なんて、ほんとはどうでもいい。あとは身体が自然と反応してくれる。

.....ということで、重元さん、ゆみっちょん♪さんへのレスにもなります(^^)
2008/01/23(水) 23:53 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

ゆみっちょん♪さんへ

> 嗅覚が発達してるんだと思う。

そうそう、甘え上手な人って「鼻が利く」。あ、今ちょっと思い出したけど、英語の辞書で単語の意味を調べたりすると、たいていどの言葉にも3通りの「和訳」が書いてあるんです。1つは、まず普通の意味。それから抽象的な意味(心理的だったり宗教的だったり)。それから、エッチで身体感覚的な意味。たとえば「blue」だと、1が「青い」という普通の意味で、2が「憂鬱な」、そして3として「blue film」とかの「きわどい」意味があります(笑)。言葉には、この3つの領域をリンクさせておこうとする力もあるんじゃないかな。そこの匂いを残しておければ、言葉も「身体の一つ」として活用できると思うんだけどね。


こういちろうさんへ

> ジェンドリンが言語化を必須と見ているというのは全くの誤解なんですよね。

そういうことでしたら、ジェンドリンを許してあげます(笑)。でも、そりゃあそうだろうと思う。だって、最初にジェンドリンがフォーカシングを思いついたのは、集めた成功例に「言いよどみ」があったことだから。言葉にならないところに進み、なおもそこから離れないようにすることに「フェルト・センス(感じられた感じ)」としか言えないものがある。6つのステップとか言い出すから、妙な話になる。

雨過ぎて、夜塘、秋水深し。川の水が増水していることに気づいたときには、もう雨は既に去っている。プロセスについて行くのではなく、プロセスとなろうとすれば済むことと思います。

2008/01/24(木) 01:06 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

直観で書いているのはわたしもですσ(⌒∇⌒)。

>たいていどの言葉にも3通りの「和訳」が書いてあるんです。

ああ、そういえば本当にそうです。
ひとつの言葉にはいろんな意味がありますよね。
1は、普遍的な共通の概念としての意味。
2は、感情や心を表していて、3は本能や身体の感じでしょうか。
これらを繋ぐことで、言葉は「世界」を構成するという重要な役割を果たしているのだと思います。

言葉って、なんで生まれたんでしょうね。
きっと無かったら無いでやっていけたのかも知れない。本能が十分に機能していたときは。
今の人間はやっぱり前に出てきたように鈍化してしまっているからでしょうか、言葉に頼りすぎているのは。
その「言葉」によって、喜んだり傷ついたりしている。
「本能」のままだったら、傷つかなくてもいいような些細なことでも。(あ、なんか椎名林檎の歌詞のようになってしまった)。

、、、ってことは、みんな原始人に戻ればいいんだ!
ウホウホって(笑)。


2008/01/24(木) 01:37 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

>プロセスについて行くのではなく、プロセスとなろうとすれば済むことと思います。

まさにそうですね。相手に「きちんと共感しよう」とした時点で、相手を、輪郭のある「モノ」化しはじめている。

 バリントが言うように、自らを流動する「地水火風」としたとき、セラピストはクライエントさんの「友好的な空間」、ウィニコットのいう「環境としての母親」になれている。

 しかしそのためには、セラピストは自らの個体としての生を超克して、ただの「気」(=プネウマ=魂)になるという「スリル」を自らに許す必要がある。それは、原初的な生への回帰であり、死への跳躍でもある。

♪心よ原始にもどれー

(「魂のルフラン」のB面。....ああ、何とわかりやすい、エヴァ旧劇場版の解説であろうか!!)

 などと、それこそ流れに任せて、うまくこのエントリーの本来の流れに回帰するこういちろうであった。

 「はっきりしてよ!!」と言い出す女性が苦手な私(爆)

 身、もろともに砕け散る覚悟につきあえるどうしが、実は一番「スリリング」で、結果的には安らぎに満ちた、想像もしなかった地平への、「足が地に着いた」漂着すると信じるのであった。

 まるで、♪川の流れのように....(^^)

2008/01/24(木) 01:46 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

ゆみっちょん♪さんへ

きっと「言葉」も本能だからだと思う。孔雀の羽根の眼と同じで、女性が「甘い言葉」に弱くて、そちらに進化したのでしょう(笑)。第二次性徴期に「声変わり」をすることからしても、男性が「性的な存在」になる指標として「言葉」の役割がある。愛を載せるための器としての「言葉」。その本来の使い方を忘れてるだけじゃないかな。

あと、今日ビオンの『再考』の続きを読んでたら、偶然にも「blue」の意味を解釈してるところに至りました(p.103)。「青い靄に包まれている」という幻覚のある人の話を受けとめているうちに、その幻覚が消えて「今、憂鬱な気分がしてきました」と言われる。これを「青さを外に排出していたのを、あなたは心のうちに取り込み直したのです」とビオンは解釈し、「青い靄は、その前にあなたが恋人を罵るのに使った<下品な(blue)>が排出されたのだと思います」と付け加えています(この本の訳は、もっと変な日本語だけど)。

うーん、シンクロニシティだなあ。3の「エッチな意味」は、考えてみると「対人関係としての意味」でもありますね。「間身体性」と言ったほうが良いのかな。言葉は、そこに繋げていないと「幻覚化」してしまうみたいです。


こういちろうさんへ

プロセスとなることは、フロイトが「平等に漂う注意」で言おうとしたことだと思います。ここに調和渾然体としての有り様がある。で、それについて次の世代が忘れていると、ちゃんと天才が現れて、またそのことを指摘してくれる。そういう繰り返しなんでしょうね。

> 「はっきりしてよ!!」と言い出す女性が苦手な私(爆)

これは、四大のうちに「地」を求めてるんじゃないのかな。バリントもそうなのですが、四大と言いながら、流動体だけを考えすぎているように思います。足を踏みしめるための「地」もまた、セラピストの役割なのでしょう。そして「地」だけを求めてしまうと、それはオクノフィルな心性になるのだろうと思う。反対に「気」だけ求めると、バリント自身のようにフィロバットな生き方になっていきそうだし。4つが調和してこその、調和渾然体なのではないだろうか。

2008/01/24(木) 22:43 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

> 何かそういった本を読まれましたか?

フロイト以外で今読んでいる本は、ヘルマン・ヘッセの「ガラス球演戯」。
これは、ヘッセが10年かけて書いた集大成的な大作なんですが。
いろいろな意味で変わった話です。
物語の舞台は西暦2400年頃のカスターリエン地方。
ガラス球演戯というのは、音楽の即興演奏のようなもので、そこにすべての学問と宗教的神秘が統合されて表現されるようなものらしい。
そのガラス球演戯名人ヨーゼフ・クネヒトの人生を描いている。
恋愛のような話は一切なく、そもそも女の人がほとんど出てこない。風景の描写なども少ない。
ひたすらガラス球演戯にまつわる精神的な話が展開されるという、視覚的要素を廃した、ストイックな小説です。
そういう本を読んでいるから、視覚にこだわりたくなったのかな。
ともかく、ヘッセはいいですよ。おすすめは、「デミアン」と「シッダールタ」ね。

> きっと「言葉」も本能だからだと思う。孔雀の羽根の眼と同じで

言葉の起源を性淘汰に求める仮説は、ジェフリー・ミラーの「恋人選びの心(The Mating Mind)」にありましたね。
言葉というのは、最初は実用的にはさほど重要でなくて、むしろ雄が雌を魅了するためのものだったと。
この仮説は、けっこうあたっているんじゃないかという気がします。
2008/01/24(木) 22:52 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

> あと、今日ビオンの『再考』の続きを読んでたら、偶然にも「blue」の意味を解釈してるところに至りました(p.103)

す、すごい。
すご過ぎる!!
ぽっきおにいさんは「シンクロ二シティ王」だぁ(≧▽≦)

これをフロイトだったらなんと呼ぶでしょう?
きっと「潜在意識のなかで、、、」「無意識が、、、」とかって言い出すでしょうね、きっと。
ぱらぱらめくっているうちに一瞬目に入ってきたからだ、とか。

直観タイプらしさも表れてる。(?)

「言葉」が本能ですか。あまりそんな風に考えたことがなかった。いつも頭をつかって喋っているから、、、。
でも面白いですね。
ますます性淘汰で「口が上手く」なっていくのかな、人類は?
だって女性が求めているのですもんね。
でもそれよりも、もっと「心」を素直に表現することが大事だとは思うけれど。

> 第二次性徴期に「声変わり」をすることからしても、男性が「性的な存在」になる指標として「言葉」の役割がある。


えっと、ごめんなさい。この辺仰っていることがよくわかりませんでした(恥)。


> 3の「エッチな意味」は、考えてみると「対人関係としての意味」でもありますね。

あっ本当ですね。
相手が居なかったら意味が無い意味ですし。
でもだからといって、エッチを対人関係の代表みたいに書いてあるのは、、、どうなんだろう?(笑)

> 重元さんへ

へぇ~、そうなんですか。
深そう&面白そうな本ですね。
機会があったら読んでみます♪
2008/01/24(木) 23:07 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

ふと、思ったのだが。
今のこのブログの状況というのは、ゆみっちょん♪さんを囲んだ3羽ほどの雄孔雀が、「どうですか俺の羽、きれいでしょ」と競い合っていて、「あなたの羽もすてきだけど、こちらの羽もきれい」と応じているという、そういう感じなのかも。
この異様なコメントの盛り上がりは、そういうことだったのか。
と、勝手に納得。
2008/01/24(木) 23:42 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

....そういうことはとっくにわかっているのだよ(爆)
2008/01/24(木) 23:50 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

重元さん、面白い視点からの分析ですね。

でもきっと、このタイトルのせいでしょう。
一家言ある人間の集まりなのだろうとも思っています。(他の方は何処へ?)

それにしてもこの記事のコメント、どこまで伸びるか楽しみ♬♩♫♪☻(●´∀`●)☺♪♫♩♬
2008/01/24(木) 23:53 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

重元さんへ

あー、「第3の意味」に言葉を落とすと「まぼろし」が消えてしまうのに(笑。


ゆみっちょん♪さんへ

> 「声変わり」

「言葉」には「声」の側面がある。もともとが「書き言葉」ではなくて、「肉声」なのだから。そういうことを、サリヴァンだったかウィニコットだったかが言ってました。泣いてる赤ん坊のそばで、なんで泣いているか分からなくても、「あー、よしよし」と声かけすれば、なぜか赤ん坊が安心して泣き止む。「なぜか」なんて言葉にしなくても良いし、分かってる必要もない。ただ、安心を伝えようという想いが言葉に乗っていれば、内容も何でも良い。そういう「声」としての言葉です。

声変わりするまでの「男の子」は、周囲の女性から「養育の対象」となるように、「子どもの声」なのだろうと思います。声変わりすることで、「女性とは違う存在」、つまり「異性」としてのアピールができるようになる。そうすると、養育の対象から恋愛の対象に変わる。そのとき「言葉」の働きも変わるのです。ついでに歌も歌うんです。下手なギターも弾くようになる。それが、青春、というものです。

> これをフロイトだったらなんと呼ぶでしょう?

ラカンはフロイトの論文から「テュケー」という言葉を拾ってきています。「宿命」という意味のギリシア語。分析治療をしていると、なぜかは分からないけれど「起こるべきときに起こるべきことが起こる」。それが転機となり、治療が前進する。必然と言うしかない偶然。そのとき分析家は「ただ驚くしかない」というのが正しい態度みたいです。その仕組みがどうなってるか説明するにも、それこそ「言葉にはならないこと」です。

2008/01/25(金) 01:30 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

>それにしてもこの記事のコメント、どこまで伸びるか楽しみ♬♩♫♪☻(●´∀`●)☺♪♫♩♬

「うち、鬼だっちゃ!!」
....てか?

2008/01/25(金) 01:35 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

>ぽっきさん

>「宿命」という意味のギリシア語。分析治療をしていると、なぜかは分からないけれど「起こるべきときに起こるべきことが起こる」。それが転機となり、治療が前進する。必然と言うしかない偶然。そのとき分析家は「ただ驚くしかない」というのが正しい態度みたいです。その仕組みがどうなってるか説明するにも、それこそ「言葉にはならないこと」です。

ラカンって、そんなにいいこと言ってる人だったんですか。

でも、ホント、そこまで行った時だけ、面接がほんとうに成功している、というのは、私の実感でもあります。

そして、クライエント・センタード・アプローチの真実の瞬間。

ロジャーズは絵空事をいっているのではない!! 決して!!

これは、他所でも使えるネタとしていただき!!
2008/01/25(金) 01:40 | URL | こういちろう # BXy/Vbyc [ 編集する]

> ただ、安心を伝えようという想いが言葉に乗っていれば、内容も何でも良い。そういう「声」としての言葉です。

(゚ー゚)(。_。)ウンウン 。子育てをしていて実感です。確かに言葉は何でもよくて、音声に込められた感情を敏感にキャッチしているんですよね、赤ちゃんって。
そうか、声変わりすると男性として扱ってもらえるんだ。!

で、ギター弾いてたんですか?

> 分析治療をしていると、なぜかは分からないけれど「起こるべきときに起こるべきことが起こる」。

すごい。
これはヒルマンさんの「どんぐり」に近いものを感じる。
特に臨床をやっているとそうなのだろうけれど、不思議な因果律のようなモノがあるんでしょうかね。
2008/01/25(金) 01:51 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

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2008/01/21(月) 20:36:44 | カウンセラーこういちろうの雑記帳
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