発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察(精神分析 臨床心理 心理療法)
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S.フロイトの1913年に発表された論文「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」について。

 本論文は、妄想型の精神病であるシュレーバーが書いた自伝「回想録」から精神病について精神分析の視点から考察したものである。

 フロイトは基本的には神経病医なので、ユングやフェダーンのように精神病の患者を持つことはなかったが、それでも多少の経験や鋭い洞察力で精神病のメカニズムについてかなり発展的な考察をしているのは,
すごいところである。

 本論文では、一言で要約してしまえば、同性愛願望に対する防衛とその破綻が精神病であると結論している。それが真実なのかどうかは分からないが、確かに精神病の患者と接していると性にまつわる妄想というか防衛というか、かなりすさまじいものが背後にある感じはしている。

 この後に発表される「ナルシシズム入門」などを見ると、フロイトの精神病に対する理解や治療はかなり否定的で、「精神病は転移が生じないので治療は出来ない」としている。いわゆるリビドーが外ではなく、完全に内に向き、1次的なナルシズム状態になっている。そのため、そこに転移、いわゆる関係性が取れなくなっており、すなわち関係性にもとづく精神分析療法はできないという意味である。

 このあたりは、後のクライン・ウィニコット・ビオン・ローゼンフェルドといった対象関係論・クライン派の分析家によって方向性が変わり、精神病の治療を精力的に行い、その過程で重要な発見をしていっている。

 僕は精神病の精神分析療法は経験がないが、一般的な臨床はあり、そこで思うのはやはり精神病の患者はかなり混沌とした生の欲動をぶつけてくるといった感じはある。そこにはすさまじさとしか表現できないものを感じる。もちろん、治療者という対象に向かってきちんと表現しているというよりも、無方向的にばらまいているという感もあるのだが。

 さらに、フロイトの時代と現代との違いはなんといっても薬物の恩恵が断然違うというところだろう。今では精神病院といっても薬物療法がかなり功を奏しているので、比較的平穏に精神病の患者もなっている。薬物が効くことによって精神療法もまた効果がでてくるのである

 また、フロイトは転移・関係性が治療上重要としているが、本論文で考察しているのは自伝からである。すなわち、自分が治療者としての役割を取っていないのである。臨床はやはり私とあなたの間で生成する素材が一番重要な情報となり、それをとことん分析していくことでそこに色々な意味が見出せて行くのである。

 自伝の分析ではどうしても客観的・第三者的になってしまい、そこに生の体験が削ぎ取られてしまうのだろうと思う。現代的に言えば転移/逆転移から治療と研究は進むのであるが、フロイトはそこから離れて客観的にシュレーバーを見ているところに生々しさがなくなってしまっているのかもしれない。

 これがフロイトが神経病医ではなく、精神病医であり、精神病の患者を数多く見ていたら・・・何かがまた変わってきたのかとも想像したりする。


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コメント
この記事へのコメント
いやあ、フロイトの精神病理論は神経症理論に劣らずすばらしいですね。あまり自分で診ていないのに理論を作るのだから天才です。

トラックバック記事を作りましたのでよろしく。

精神病の分析治療ができないというのは、外的現実を通じた治療同盟が結べないからと書いていますね。
「精神分析概説」では、将来においてはもしかしたら可能になるかもという含みももたせていました。また、薬物治療を予言するような言及もあります。
やはりフロイトはすごいですな。
2007/09/12(水) 22:47 | URL | 重元 # qgv1q6Fs [ 編集する]

そうですね、精神分析療法は治療同盟を結ぶことが大事となっていますね。神経症では自我が弱いながらも機能しているので、同盟を結べますが、精神病ではそれが難しいですからね。

ここで連想が飛びますが、神経症レベルの人の治療では、治療同盟を結んで、目標に向かって作業を行います。いわば、治療同盟はスタートラインです。

でも、境界例や精神病の人とは、治療同盟を結ぶまでが大変で、それが結べること自体が治療目標になることもあります。いわば、治療同盟はゴールですね。
2007/09/13(木) 15:06 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

「おまえ」という方向に向いてるんだよ。よく見ろ、ばか。
2007/09/15(土) 20:58 | URL | # - [ 編集する]

名無しの権兵衛さん>もしかして、精神科の患者さんですかあ?
セーイチさんは、あくまで「無方向にばらまいている感がある」と、主観的なことを仰っていると思うんですけど。
2007/09/15(土) 22:50 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

まあ、当事者(患者さん側であれ、病院のカウンセラー側であれ)にしてみると、セーイチさんの文章に「カチン」と来るのはわかるけどね。そのまま「カチン」をぶつけ返しても、何も起こらんでしょうに。

セーイチさんに対しては、「無方向にばらまいてるように自分が感じるのは、なぜだろう?」と「疑問」として持ってもらえたら、と思う。もう少し、自分のほうに目を向けて欲しいかな。本当に「ばらまいている」としか思えないのなら、なぜそんな人が「セラピスト」という立場で精神病の患者さんに会えるんだろう?というくらい、根本的な問題をはらんでるのだから。どんな「プラス」を患者さんに提供できるというのだろう?

2007/09/16(日) 00:17 | URL | ぽっき # - [ 編集する]

この部分のことを書いた時に念頭にあったのが、病院に勤務していた時に、保護室で暴れている患者さんを小窓からチラっと見たときの体験です。

精神病といってもレベルが様々だし、対人関係や交流が全く違うので一概には言えないですけど。
2007/09/16(日) 01:02 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

現場にいる人間とすると「どうやったら、むこうが伝えようとしていることを、あと少しでも多く受け取ることができるだろうか」と毎日考えているから。もし「まき散らしている」と感じるなら、それは「受け取り損なっている」という自分の器の話でしかない。

「むこうがまき散らしている」と考えるなら、話はそこで終わってしまう。反対に、少しでも受け取ろうとするなら、受け取った部分が「治療同盟」となる。平易に言えば、「信頼してもらえる」ようになる。ゴールなんかじゃない。スタート地点から少しずつ貯めていく感じ。もしやってみるなら、その感じはセーイチさんにもわかるだろうと思う。

2007/09/16(日) 02:34 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

正直なところ当時なかなかそういうことができなかったなと思います。

今、抱えているケースだけであっぷあっぷしてて、それだけ器や力量が足りなかったのかなと。足りないから努力はしてきたつもりですけどね(^^ゞ

今振り返ると面接や関わりをもっていたケースの場合、「撒き散らしている」という感覚はそういえばなかったです。ものすごいものを向けてきているかと思えば、本当に小さいものをか細く向けてきていたり。

中間地点がなかったといったら良いのかな。

あるとき、妄想の中に僕自身が登場してきた時には関係性ができてきているのかなと思いつつも、どうしたら良いのか迷っていたのを思い出します。
2007/09/16(日) 09:30 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

なんか、感情的にレスしてしまって反省です。。。

ぽっきさんのコメントを拝読し、感動しました(泣)。
しっかりと肝に銘じておこうと思います。
机上の勉強だけではわからない部分が多すぎます。現場は本当に大変なのですね、、、。

臨床心理士さんのお仕事、大変かと思いますが、これからもがんばって下さいねv-22
2007/09/16(日) 13:09 | URL | ゆみっちょん♪ # I.K6Pi7I [ 編集する]

クライエントさんの中で生じているものと、それを受け止めてもらえないことから生じるものとを混同すると途端にクライエントさんが見えなくなるかもしれませんね。

すべては関係性の中で生じていることですから。

ただ、クライエントさんの苦悩というものは、座学での勉強や、観察しているだけでは判らない、体験したものでなければ、安易に判ったことは言えない壮絶さがあるように思います。
 精神病水準の場合は特に。もちろん神経症水準であろうが、何であろうが、クライエントさんの苦悩に優劣などつけられるわけがないのですが。

どこまでキャッチできるかは
カウンセラー(セラピスト)自身が「どこまで行って戻ってこれたか」(へんな言い回しですが・・・)という体験の幅や深さの影響が大きいのだろうなと感じています。
 
 クライエントさんについて「何か自分が判っていない部分がある」ことを常に意識し、「クライエントさんは何を伝えようとしてくれているのだろう」と謙虚に考え続ける姿勢が大切ですね。
2007/09/20(木) 12:12 | URL | 一休 # mQop/nM. [ 編集する]

分からないことの方がホント多いと思います。分かったと思ったら、次の瞬間には先に進んでて、また分からないことが出てきたり。分からないことについて絶えず考え続けることが大切なのかもしれません。

そう思うと、見立てとかアセスメントっていうのは完璧なものっていうのはないんだろうなって。その時その時の「分かっていること」のみに限定したもので、クライエントさん全体のものではないということなんでしょうかね。

研究論文とか研究発表のコメントで「見立てができてないから介入も治療もできないんだ!」と言われたりすることもあるけど、そんなんできるの?って思ったり。(見立てを軽視しているとか否定しているということではないですけど)

まー、それよりも前に、僕は自分自身についてのアセスメントをして、自分自身に目を向けないと(笑)
2007/09/20(木) 14:26 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

シュレーバー症例は、精神病論としてより、公教育批判として読むことが出来るんだよなあ。

シュレーバー議長の父親のモリッツ・シュレーバーはライプチッヒ大学の医学教授で、青少年の体操理論を作った人。ドイツの体育教育の基本となっていたものだし、日本にも「榭中式体操」として紹介され学校教育にも採用された。「背筋を伸ばして、腕は真直ぐ上に」はここあたりが起源。日本人にとっても身近な話です。「私の身体にシュレーバーが棲んでいる」くらい身近に感じて戦慄すべし。

そんな「偉い先生」に対して、一介の(大学教授でさえない)ユダヤ人が「否」という論文を書いてるんだから、たいしたもんだと思う。名も無き「患者」をいじり回していた他の精神科医と違い、「著名な医学博士の息子」を症例扱いしている。そして、個々人の身体を、一定の鋳型に嵌め込む考え方の危険性を突きつけている。しかも「今も」当てはまる話だ。たいしたもんだと思う。

2007/09/21(金) 00:19 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

そういう見方もできるんですね。

著作集のあとがきか解説だったか、シュレーバーの父親や体操の話も書いてました。

ただ、鋳型にはめこむことの危険性については分からなくもないけど、それだけであそこまでの病状を示すものなのだろうか、という疑問も一方にはあります。

それと、鋳型にも色々とあるだろうし、シュレーバーの父親のは一方的で厳しすぎるきらいはあるけど、あまりにも自由度でありすぎることが逆に不安や混乱を示すときもあるのかなと。

心理療法でも時間・場所といった一定の枠とか鋳型があるからこそ、その中で自由になれるということを連想しました。
2007/09/21(金) 09:45 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

鋳型にはめ込むことについてですけど、よく考えると、教育として人間の生き方を一つの方向に一方的に持っていくことと、心理療法の中で枠付けすることって全く違う意味合いだから、比べることはできないのかなと思いました。
2007/09/21(金) 13:50 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

それは、人の「生まれつき」もあるからだろうと思う。Aの子どもに合う教育はBの子どもにはストレスでしかない。Bの子どもに合う教育はCの子どもには苦痛になる。Cの教育に合う教育はAの子どもに生きづらさを与える。そんな構造をしてるのだろう。

そして、今の社会で「良かれ」とされる教育に不向きな場合は、大きくなってなんらかの精神障害を表す(あるいは、子どもの頃「軽度発達障害」を表す場合もありうる)。でも、その「生まれつき」自体は、別の時代の別の社会なら、むしろ良く適応する可能性があります。かえって、今の社会で「適応」するタイプだと、別の社会なら「発症」するようになっているのかも知れない。

「病因性遺伝子」というのは、そんなことだろうと思う。それに合った「教育」というのがある社会なら、むしろ望ましい形質に育ちうるのを、ただ苦痛の源にしてしまっているとしたら、どう考えるか。

2007/09/21(金) 22:36 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

ぽっきさんのコメントで思い出したのは、以前に記事を書いたTEACCHのことです。

自閉症児に対して、こちらがその認知の仕方や行動に合わせ、適切な生活環境を整えたり、使いやすいツールを与えたりすることで、より生きやすくなるというのも、もしかしたらこのことかなと。

従来のやりかたではストレスになったり、生き辛くなったりしているのを、より適切な方法に切り替えることでより適応していけるという。

そう思うと、今目の前で「不適応」を起こしている人に対して、「それはその人の病理や問題だ」と決め付けるのではなく、「こちら側の対応ややり方の問題ではないか」と見直すことって大切なのだろうと思いました。
2007/09/21(金) 22:59 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

あと、中井先生の指摘されたように、精神病になるには「才能」が要る。つまり、才能がない人だとストレスを受けたとき、まず「身体」に出てしまうんだよなあ。風邪をひくとか、下痢になるとか、鬱状態になるとか。そのハードルを飛び越せる人でないと、精神病にはなれません。シュレーバー式体操は、そんな体力を得るための秘訣かも。

それと自閉症に関してですが、僕自身はTEACCHとちょっと違う考え方をしている。たぶん現代の「教育環境」は官僚やビジネスマン、セールスマンに特化されてるんだと思う。「場を読む」とか「コミュニケーション力」とか、そんな力が要るのは「人をケムに撒く」ときだからね(笑。

でも、そんな職業はこれから主流ではなくなるんだろう。プログラマーやネット起業、デザイナー、トラックの運転手。そういう、時間に拘束されず、常同性と独創性の共存が要求される仕事がこれから求められている(あるいは、まだ知られていない職業がこれから登場するかも知れない)。そういう「未来」に合わせて、いま人類が「先取りの適応」を行ってるんじゃないかな。そこにセールスマン型の教育をしてもなあ、という感じ。

2007/09/21(金) 23:58 | URL | ぽっき # mQop/nM. [ 編集する]

>才能がない人だとストレスを受けたとき、まず「身体」に出てしまうんだよなあ。

マクドューガルの「身体という劇場」では、身体に症状の出る心身症・身体表現性障害は、見た目以上に病理が深いという記述をしていたように思います。

中井先生のいうのは、もしかしたらこの辺りと関連があるのでしょうかね。


でも、新しくて、知られていない職業ってどんなんなんだろう?想像できないな~。
2007/09/22(土) 09:28 | URL | セーイチ # 6fwIY24o [ 編集する]

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2007/09/12(水) 22:40:34 | 重元寛人「フロイト全集」を読む2.0
混沌の水面に出る。そこは水玉の世界。水玉模様に、水玉の音、水玉の匂い、水玉の感触。水玉なのに鋭い。世界を裂いている。わたしは世界から裂かれる。この瞬間、1と-1が生じる。1と-1は同時に生じる。わたしを
2007/10/03(水) 11:40:52 | アブラブログ
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