発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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著者のこれまで発表した論文をまとめた論文集。ウィニコットから始まり、日本語臨床、日本文化論にまで至る、日本独自の精神分析を目指しているように思われる。

タイトルは一見すると何のことを言っているのかが分からないが、よくよく中身を読み進めていくと、確かに臨床では、特に精神分析では黒か白か、善か悪か、良いか悪いか、前か後ろか、など二分法では決めにくいものがある。また同じ事象を捉えていたとしても、人によってまるでその判断や評価が違ってくることもあるだろう。そうした決めきれないところに臨床の意味や意義が見出されていくということなのかもしれない。

またいくつかの症例も掲載されているが、その著者の解釈のあり方や姿勢について、言葉の芸術家らしく、含みやウィットに富んでいるように思われる。堅苦しいお仕着せの精神分析的な用語以上の、著者自身の人間らしさが見えてくるように思もう。また、その言葉には演繹的に何かを決めつけるものではなく、その今ここでの患者に即したものをそっと置くような、そのような繊細な感じもある。そうはいっても、著者自身も関係の中で揺れ動き、時には感情的にもなっているようであるが、そこにもまたパーソナルな出会いが表現されているようにも思われる。



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メルツァーはもともとメラニー・クラインから訓練分析を受けていた最後の一人である。メラニー・クラインの死亡により、訓練分析が終了し、その後も他の分析家との分析を終生続けていたようである。想像するに、クラインとの死による別れのモーニングワークだっとも言えるかもしれない。そして、ビオンがカリフォルニアに去ったあとのイギリスにおいてメルツァーはクライン派を背負って立つ人物のように思われていたが、結果的にクライン派からも、分析学会からも抜け、独自の道を歩むようになっていった。そのためかウィニコットやビオンと同様に、グループというものはなく、メルツァリアンなどのような学派は存在しない。

本書はメルツァーの処女作であり、精神分析がどのように進展するのかについて書かれたものである。精神分析はさまざまな要因が絡み合い、一つとして同じプロセスはないものの、精神分析がうまく親展している時には、このような変遷をたどるということをメルツァーなりに記載している。メルツァーはそのことを「自然史」と言っている。そして、その自然史が通常通りに現れるためには、単純化していうと、分析設定と分析家の姿勢の二つがあれば良いとしている。つまり、時間や料金、頻度、カウチなどの分析的な設定を厳密に行い、それを維持すること。さらには分析家は無意識に開かれた態度をとり、適切な解釈を行っていくこと。この2点が精神分析の自然史には必要なことなのである。

そうはいってもメルツァー自身や訳者があとがきでも述べているように、このような精神分析の自然史は理想的、理論的なものであり、分析家同士のコミュニケーション言語である。実際にはさまざまな転移-逆転移の展開によってまさに情緒の嵐のごとく一進一退するものであると想像できる。


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