発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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本書が出版されたのは2003年であり、私がまだ学生だった頃にすぐに購入した本である。ただ、当時は全くチンプンカンプンで1~2章ぐらい目を通したところで挫折してしまった記憶がある。その後、10年ほど書棚のインテリアとしての役割をはたしてもらっていたが、最近たまたま手に取ることがあった。今回は10年ほどの歳月でそれなりに臨床を積み上げてきたからか、何とか最後まで読み進めることができた。もちろん、細部をどこまで理解できているのかは不明であるが。著者は「精神分析は知的なものではなく、カウチの周辺にある生々しい営みである」というようなことを言っている。私は精神分析を実践するものではないが、分析的なセラピーをある程度経験したことがあるからこそ、知的に読むのではなく、生々しさの一端を理解し、今回は本書を最後まで読めたのかもしれない。

本書は10章から構成されており、1章を除き、いずれも発表された論文に加筆修正したものを掲載している。そして、そのどれもが知的な理解ではない、生々しい営みがそこに繰り広げられており、まさに精神分析はその人と出会うものであるということがより深く分かるような気がしてくる。



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フロイトから始める精神分析は誕生してから100年以上が経過したが、それまでに様々な本や論文が公開されてきた。数えたことはないが、膨大な量になるだろう。その中でも、精神分析やその他の領域に大きな影響を与えた21冊を選び、それらを解読している。

本書はラカン派の人によって編集されており、ラカン派の文献が3~4冊収録されている。編者は「精神分析とラカン派には大きな隔たりがあったが、このように共同で本書のように取り組むのは珍しい」という文脈のことを書いていた。確かにそのとおりであるように思う。精神分析は基本的に実践の学であり、患者と分析家との二者関係での営みを根本に据えているところがある。反面、ラカン派は一部を除き、そうした実践から離れ、文学や哲学の領域に手を伸ばし、そこで創造的な仕事を行ってきた。そうした立ち位置が今日の精神分析とラカン派の溝を作ったとも言える。日本は良し悪しは別として、融合的・調和的にやっていく文化が根付いており、それが精神分析とラカン派が同じ本で取り上げられるという経緯になったのかもしれない。編者は「世界ではこのようなことは考えられない」ということを書いているが、まさにそのとおりである。


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