発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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本書は松木邦裕に物申す、という極めてチャレンジングな企画を形にしたものである。松木先生は日本でも代表とする精神分析臨床家であり、日本精神分析協会の訓練分析家である。また数年前には日本精神分析学会の会長も務めている。最近では京都大学でも教鞭を取っているが、それまでは個人オフィスでの開業のみというフロイトのスタイルに極めて近い臨床・分析実践をしていた。そして執筆が早いことでも有名で、本書でも執筆期限よりもずいぶんと前に原稿が仕上がっていたようである。また、私自身もプライベートで何度かお世話になったことがあるが、飄々としていて、一見掴みどころがないが、実はとても親身で、大変良くしてもらった覚えがある。

松木先生の書籍は数多くあるが、いずれも良書であり、初学者からベテランまで参考になるものばかりである。そのような松木先生の論文に何かを物申すなんてことは大胆不敵とも思えるが、考えてみると精神分析では何か完璧な教科書があって、それを学習するということが本筋ではない。そうではなく、パーソナルな体験と自身の思索を深めていくことが肝要なのを考えると、松木先生の論文から着想した何かを思考することは極めて精神分析的な体験になるのだろう。つまり、何が正解か、何が正しいか、何が妥当か、ではなく常に連想を続けることが、思考を続けることが、探索を続けることが精神分析なのである。

前置きが長くなったので、このぐらいで終わりにして、本書の内容を見ていくこととする。

本書は松木先生の最新の技法論文をイントロダクションとし、5人の臨床家がそれぞれ松木先生の過去の論文を1本取り上げ、考察している。イントロダクションの松木論文は分析臨床における理解や解釈のあり方を論じており、大変整理されたものとなっている。ただ、失礼を承知で書かせてもらうと、本書のエッセンスは「対決」にあるので、興味関心は次の対決1~5にどうしても行ってしまう。実際、整理のされ方からすると、断然松木論文が優れている。が、5人の執筆者の論文は一部荒削りのところはあるにしろ、大変なエネルギーや鬼気迫るものを感じてしまう。つまり、単純に面白くて、内容に引き込まれてしまうのである。物申すにはこれぐらいのパワーが必要なのかもしれない。

対決1では「悲しみをこころに置いておくことをめぐって」ということで、祖父江先生が論考を立てている。そこでは松木先生は陰性転移を生き抜くこと、つまり陰性転移解釈を分析の軸に置いている。かたや、祖父江先生はそれに賛意は示しつつ、もっと希望や陽性の関係に焦点を当てる解釈を取り上げている。祖父江先生やビオンの表現では「見えない連結」を扱うことである。このことは以前に祖父江先生があるセミナーで講義・スーパーヴイジョンをされていた時に何度かお話しされていたが、祖父江先生なりのケースの抱え方を主張しているようである。

対決2では「終結をめぐって」というテーマで上田先生が論じている。たぶん、執筆者5人の中では知っている限り、一番若手の臨床家であると思われる。その若手の臨床家が終結を論じるのもまた面白いものである。ちなみに、他の4つの対決ではオリジナルの松木論文が掲載されているが、この対決2だけはそれは掲載されていない。オリジナル論文は創元社の「分析実践の進展(2010年)」に収録されているものである。創元社の版権の問題で掲載できなかったのかもしれない。そういえば、他の4つの対決の内、3つは他の出版社から出版された本の論文である。ほぼ全部を他誌で掲載を許している出版社も度量が深いのかもしれない。そのため、対決2の松木先生のオリジナル論文を読むには原著にあたる必要がある。

それはさておき、対決2で上田先生は、終結について「どうなれば終わるのか」「終わることの意義とは何か」「終わりとは何か」の3つについて思索している。ここでは多くの議論が積み重ねられており、さまざまな視点から終結について論じられている。その中でも一つだけ取り上げると、終結を通してしかワークできないものをワークする、という上田先生の主張が目を引くところである。精神分析は何かを解消したり、終結のために作業したりするものではなく、常にワークし続けることが精神分析であるとも思える。そうすると、終結を単に終わるだけのものではなく、終結を通してワークするものがあるというのもまさにそのとおりであるかもしれない。

対決3では「情緒的に受け入れることをめぐって」というテーマで論じられている。ここでは松木論文でも、関論文でもパーソナリティ障害と逆転移が中心的なテーマとなっている。この二つのテーマも実際の臨床ではよく遭遇するものである。松木論文では逆転移を心にとどめつつ、パーソナリティ障害の奥底にある抑うつに触れていくことが肝心であるとしている。それに対して関論文では思考における客観性の獲得を目指すことを論じている。クラインが提唱した妄想分裂ポジション、抑うつポジションという概念がある。抑うつポジションは内的な苦痛や葛藤を心に据え置くことができ、妄想分裂ポジションのように排出することはしない態勢である。そこでは、自分のことを自分のこととして客観的に見れることも含まれている。これらの概念からすると、松木論文の抑うつに触れることも、関論文の客観性の獲得も、もしかしたら近いことを別の言葉で表現しているのかもしれない。

対決4では「心身症治療をめぐって」がテーマである。松木論文では週1回のオーソドックスな精神分析的セラピーを、岡田論文では通常の一般心療内科における治療を行った症例が紹介されている。その中で岡田先生は技法的な面から松木先生の方法を「深く少ない」関わりとし、自身の方法を「浅く多い」関わりとしている。しかし、昨今の精神分析業界では転移・逆転移を中心にして、治療関係を重視し、内的世界を描き出すことに方向付けされつつあるように思える。そのため、●●障害や▼▼疾患といった疾病単位で論じることが少なくなっているように思う。これは認知行動療法など疾病単位でエビデンスを出す方向に舵を切っているのとは正反対である。どちらが正しいとか間違いとかは全く言うつもりがないが、精神分析の特性上、疾患単位から離れていくことは至極当然のことのように思われる。その中でこの対決4では真っ向から心身症を扱い、その技法的な側面や心身症の特徴を描き出しているところは貴重と言えるであろう。

対決5では「退行をめぐって」では、編者の細澤先生が退行について論じている。松木論文では転移と退行を比較検討しており、退行は過去に力点が置かれており、反対に転移は現在に力点が置かれているとしている。このことは技法上の大きな相違点になると指摘している。つまり、退行概念を取ると、実際上の満足を与える方向に技法が行ってしまい、分析的にならないとしている。そして転移概念を取ると現在に力点が置かれている分だけ解釈という分析的技法が重要となってくる。そのため、松木先生は転移に力点を置き、解釈によって自らの内的世界の理解を推し進めていくという極めてオーソドックスな精神分析技法を推奨している。

そして細澤先生は自らを「反逆児」と称しているが、松木論文と真っ向反対のことを論じている。細澤先生はフィレンチィへの傾倒に始まり、メルツァーの翻訳、最近ではランクの翻訳も手がけているとの情報も入っている。いずれもの精神分析臨床家も本流からは離れて行っている人々たちである。しかし、ユングやロジャース、ベックのように完全に精神分析から離れてしまうわけでもなく、微妙な均衡の上で彼らなりの精神分析を構築していっている。そういう姿は細澤先生にもある種、通じるところがあるように見える。その細澤先生は松木論文とは反対に退行そのものに治療的な意義があるとここでは論じている。退行を抱え続けることにより、バリトンのいう「新規蒔き直し」などを取り上げ、分析の本流である転移解釈ではなく、マネージメントや抱え続けることの重要性を取り上げている。細澤先生は「行きつくところまで退行するのを許容し、その結果を見守る」としている。言葉で書くと簡単そうに見えるが、これは本当に大変なことであると、臨床にいるものであれば分かることであろう。このようなところに細澤先生の臨床的センスが垣間見えるように思える。ここでは松木先生の本流と、細澤先生の反逆児とのコントラストが非常に印象深い。

繰り返しになるが、このような論文を通して対話と交流、ひいては対決をするという企画は本当に斬新でありつつ、極めて精神分析的な体験がここでは醸成されているように思う。この対決シリーズの第2弾、第3弾が出てくることが期待されるが、次の還暦や古希を迎えそうな分析家は誰であろうかと、ひそかに思いを巡らしてみると面白いかもしれない。



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精神分析は週に4~5回のセッションを数年に渡って続けなければいけないかなり負担の大きなセラピーである。ウィニコットはできるだけ関わりは小さく短くというのが大切だという考えから、1回か多くても数回のセッションである程度の効果を出すためにどういうことが必要なのか、ということを考え、本書で取り上げられているような治療相談(Therapeutic Consultation)を考え出した。これらは主に子どもの治療で用いられるが、スクイグル・ゲームなどを用いながら、初回面接の段階で子どものかなり深い部分の葛藤やコンプレックス、対象関係などに触れていき、発達を前に進めることのできる技法である。

本書は3部構成になっており、1部では7症例の健常児を、2部では5症例の精神病児を、3部では9症例の反社会的な児童を、計21症例を取り上げている。いずれも1セッションか数セッションほどの短い期間での出来事を詳細に記載している。そして、どれもがそれだけのセッションでかなりの改善を見せているのである。ちなみに1968年の「私の総計」という論文では、改善、変化なし、悪化がどれぐらいの割合だったのかを報告している。

ここで紹介されている症例はほとんどがスクイグル・ゲームというものを用いている。スクイグル・ゲームはイギリスの伝統的な子どもの遊びで、特にウィニコットの独創ということではないようである。一方がデタラメな描線を描き、もう一方がそこから見えるものを描いていく、ということを交互にしていく遊びである。そこにウィニコットは子どもの様々なもの投影され、深いコミュニケーションの中で無意識が明らかになっていくことを見出している。そういう意味での独創性はあると言えよう。

これらの症例を見ると、この時代のブリーフセラピーとも言えそうであるが、ウィニコットの後にはこの治療相談の技法はあまり発展せず、今日ではあまり使う人がいないようである。

このような劇的な変化に感銘を受けて、自分もやってみようと思う人もいるかもしれない。しかし、簡単にこういうことができると考えるのは危険であろう。それはウィニコットも主張しているが、この治療相談は精神分析とは違うが、精神分析のトレーニングを積まないとできないと言っている。精神分析を学ぶことが前提であるので、そう簡単にはできないのである。聞くところによると、本書が新たに訳しなおされて再出版されたのは、療育関係の人の要望が強かったからのようである。とても感銘を受けたのは分からないでもないが、精神分析のトレーニングを積んでいない療育関係の人がこういうことが本当のところで参考になるのかは疑問である。



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前頭葉前部白質切截術というのはいわゆるロボトミー手術のことで、前頭葉前部を切り取ることにより、衝動性を抑えたり、過剰な覚醒を抑制したりすることができる。ただ、それにともない、情緒・感情といった人間性に関わる部分も抑制されてしまうという副作用も大きいのである。そのため、現代ではこの手技については実施はされてないようであるが、ウィニコットのこの時代ではまだ実施はされていたのである。そして、この手技に対して、ECTと同様にウィニコットは強く反対しており、そのために数多くの社会的発言も行っている。

本書に掲載されているこの章は論文ではなく、学術雑誌であるランセット誌の編集者に当てた手紙である。ここでウィニコットは精神分裂病(今で言う統合失調症)やうつ病、躁うつ病が身体的な基盤をもった精神疾患であるとしつつも、情緒発達の重要性について言及している。そして、一時的に精神的な破綻をすることも意味のあることとし、それを安易に手術で不可逆的な状態にするべきではないと主張している。

短い手紙ではあるが、ウィニコットの患者を思う情熱が強く感じられるように思う。


D.W.ウィニコット(著)「けいれんを誘発することによる精神障害の治療」 1943年
館直彦 他(訳)“ウィニコット著作集6巻 精神分析的探究1 精神と身体” 岩崎学術出版社 2001年 pp218-225

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いわゆる電気ショック療法(ECT)のことであるが、ウィニコットはロボトミー治療と同様にこのECTに関して、強い反対表明を繰り返し行っている。特に患者にとってECTがどのような意味があるのかを問い、それを精神分析の症例を元に提言を行っている。

ECTを行うことにより、本来の精神医学的な治療である人間性を元に行うことができないこともウィニコットにとっては大きな問題であると見ているようである。

そのため、様々な雑誌の編集者に抗議の手紙を送ったりもしている。このようにウィニコットは単に面接室に閉じこもるタイプではなく、たくさんの社会的な発言を行っているのである。



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現代の理解で言えば心身症とはストレスなどの要因により、身体的な不調や変調を来たす病気である。しかし、ウィニコットは大きな意味では、精神と身体が解離によって切り離されるものであるという認識を持っているようである。

そして、本論文では摂食障害、依存傾向の中年女性、大腸炎患者の3症例を元にして考察している。いずれにしても、発狂不安、離人症、といった身体症状が何らかの象徴的意味を持っていることが示されている。

さらにウィニコットは心身症を以下の二つに分類している。

(1)統合へ向かう傾向を伴った一次的な無統合状態
(2)精神と身体の統合もしくは精神が身体に「住みつくこと」。それに引き続いて、精神と身体の統一体を楽しむ経験がある。

つまり、心身症は人格の発達において、身体に精神が住みつく事がきちんと確立されていないことであるとウィニコットは言う。もしくは、「わたしでないものNOT-ME」が存在することを個人が否認したことによって起こる敵意ある世界からの特殊な形の分裂への退却が関係するのである。それは迫害に対する防衛として組織化された分裂を意味しているのである。

これらのことを見てみると、心身症は精神分析的に見るとかなり重篤な疾患であることが分かる。


D.W.ウィニコット(著)「精神分析下で退行に出会う際の設定の重要性について」 1964年
館直彦 他(訳)“ウィニコット著作集6巻 精神分析的探究1 精神と身体” 岩崎学術出版社 2001年 pp122-129

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本論文は精神分析候補生に向けたセミナーで話されたことである。テキスト的なことではなく、ウィニコット個人の見解を述べるようにと言われていたようで、ウィニコットが自由に話しているのが特徴的である。

ここでは重篤な症例における退行を例にして話されている。これらの退行は大変大規模なものであり、抱えることがかなり困難になってくる。それは幼少期の絶対的な依存の時期に至る退行であり、100%の安全な環境を患者は求めているからである。

そのような時、解釈は必要であるが、それだけでは不十分であり、場面設定とその維持が大変重要となってくるようである。その中で、(1)抱えること(2)取り扱うこと(3)現実のものにすること、の3つが発達促進的な環境となるとウィニコットは主張している。そして絶対的依存の時期から相対的な依存の時期、さらには自立に向けて動き出すのである。



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ウィニコットは破綻恐怖はほぼ全ての人が持っているものであると主張する。それがすぐに顕在化する人もいるし、長い分析の中で徐々に露になる場合もある。破綻恐怖は人生の最早期に既に体験しているのである。それは発達促進的な環境の失敗、侵襲によって起こされる幼児的な反応だからである。分析ではそれらを「思い出す」ということが必要となってくる。

そして破綻恐怖は様々な形の恐怖症に姿を変えている。死の恐怖、空虚感、存在しないこと、等々。

さらに、ある部分では精神神経症でもこの破綻恐怖を乗り越えないと分析は終了できないのである。これらを恐れ、分析家も患者も見ないようにして、円満で終わることはある意味では共謀である。この恐れていることを十分な理解と洞察の中で再び体験しなければ価値はない。そうではないと、現実的に精神病院に行くという羽目になってしまうのである。



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ここで登場する症例は女性で、精神分析の中でウィニコットが沈黙することにより、その沈黙を巡って、様々な空想を発展させていた。

ウィニコットはこれらの経験から、解釈は分析家の理解の限界を指し示すものであるが、沈黙することで分析家が万能的に何でも知っている存在として患者に知覚されるようになる。このような万能的な世界を十分に体験することも時には大切なのかもしれない。そして、その沈黙の中に患者はたくさんの投影を行っているのである。


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