発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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メラニー・クライン(著) 「羨望と感謝」 1957年
メラニー・クライン著作集5巻 ”羨望と感謝” 誠信書房 pp3-90

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 クラインはいくつかの重要な概念を提出しているが、この羨望はその中でも最後のものとして有名である。良い対象であるからこそ、それに憧れを抱き、同時に怒りも持つ。自分にはないものを持っているという気持ちが対象破壊的な欲動を動かすということなのであろう。さらに、クラインは羨望を嫉妬とは区別している。嫉妬とは三者関係の中における情緒であり、羨望は二者関係におけるそれである。そういう意味でより原初的な欲動の一つと言えるのかもしれない。

 これは臨床場面でもよく見られるもので、患者は治療者を何でも知っており、自分を万能的に助けてくれる良い対象であるとみなすことが多々ある。それが悪性の退行や依存を引き起こし、治療を破壊してしまうこともあれば、羨望が掻き立てられ、治療者に対する怒りや攻撃性が噴出し、これもまた治療を破壊してしまうこともある。

 クラインはこれらの羨望の分析の必要性とその困難さについて本論文で述べており、それは非常に説得力のあるものであった。しかし、反面、羨望の肯定的な側面についてはそれほど多くは述べられていなかった。それは、羨望があるからこそ、そこに憧れを抱き、他者を取り入れ、成長していく礎にもなるところはあるだろう。それには、この羨望に押しつぶされず、生き抜くことが求められる。治療者は、患者の羨望はもちろん情緒的なリアリティを持つものであるが、万能感に基づいた幻想や投影であるという理解も片方では持ち、転移として扱っていくことが必要であろう。というのも、治療者というのは患者が思うほど万能的でも、理想的でもなく、普通に失敗もすれば、感情的にもなり、恣意的な介入しかできない存在である。そのような現実を直視し、万能感を手放す悲しみを共有していくことが羨望を扱う一つの道筋になるのかもしれない。


信田さよ子ブログの「もういちど繰り返す」のエントリーを読んで。

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 信田先生は原宿カウンセリングセンターを開業しており、特にDVや虐待など暴力問題について詳しい臨床心理士です。臨床心理士に多いのが内気で内向的で相談室にこもってカウンセリングだけをするというタイプです。その良し悪しではありませんが、信田先生はどちらかというと積極的に表に出て、待ちではなく攻めの姿勢で、社会に対してもどんどん発言していく言わば外向型の臨床心理士のようです。実際のパーソナリティは知りませんが、もしかしたらそこもアクティブなのかもしれません。

 その信田先生が普天間問題についてブログで記事を書いていました。その記事についていくつか疑問や異論があるので書いてみたいと思います。

沖縄の普天間の基地問題を日本全体の困難として普遍化しなければならない



 というのは僕も同感です。地方の問題・他者の問題として押し付けず、全体の問題として取り組むことは必要でしょう。ただ、そうはいっても、ではどうやったら全体の問題として取り組めるのか?ということには触れておらず、理想論・理念論に終わってしまってますが。

日本国民の総意として、海兵隊の基地は要りません



 このことについてはどうでしょうか。本当に基地はいらないものなのでしょうか?いや、やはり必要なものと言えるでしょう。必要悪といっても良いかもしれませんが。基地をなくせばすべての問題が解決するといった全体状況が信田先生には見えてないようですが、そもそもなぜ基地があるのかを考えねばならないと思います。僕も政治・外向のスペシャリストということではないので、不理解の点はあるかもしれませんが、基地が必要な主な理由はアジア地区の平和ということがあるでしょう。特に中国の軍事拡張に対する抑止力です。知ってのとおり、中国がいまだに軍拡を進める珍しい国であり、近隣諸国に対して圧力を掛け、領海・領土侵犯を重ねています。ウイグル人やチベット人に侵攻し、弾圧を常に加えています。また、尖閣諸島の日本の領土を犯し、海底資源を盗み続けています。先の麻生政権の時には大陸棚規定の改定を国連に申し出て、その資源を守る手立てを行っていました。大変重要な仕事ですが、マスコミはほとんどがこの仕事を報道しませんでした。さらに、先月の沖ノ鳥島を取り囲み、自衛隊機に威嚇をしたことは記憶に新しいところでしょう。

 このような中国の軍事的圧力があるアジア地区で均衡が取れているのは米軍が駐留しているからです。そういう事情を知らずに基地だけをなくせばその軍事的均衡が傾き、中国による侵攻は現実のものとなるかもしれません。よく日本は平和な国であるという幻想を日本人は持っていますが、現実はそうではなく、常に領海・領土問題を抱え、隣国からの圧力の中で緊張状態にある国なのです。

 もし仮に米軍基地をなくしたいというのであれば、対案をきちんと用意してください、と言いたいです。例えば、米軍に変わる軍事力を日本が持たないといけないでしょう。そんなことをするとヒステリックに反対するでしょうが、日本を守るためにはそれぐらいのことをしないといけないというのが現状なのです。自衛隊でさえ必要ないと言っている政党もあるようですが、もう少し現実を見てほしいと思います。

比ゆとして不適切かもしれないが、その違和感はDV問題と似通っている。DV(ドメスティック・バイオレンス)という言葉が生まれる前も、父が母を殴ってどなり散らす家庭はごまんとあっただろう。母が、息子に「あんたが高校に入ったら別れるよ」と言い聞かせ、息子もそれを信じて母とともに着いていこうと考える。ところが、いざとなると母親はいっこうに別れる気配もない。一生懸命信じてきたのに、どうして母までも自分を裏切るのだ、と息子は激しく母に憤る。この母と息子との関係に、普天間問題は似てはいないだろうか。肝心の父親への抗議はどこへやら、母親の約束不履行ばかりを責める息子は、結果的に父の暴力を不問に付し、問題を母の約束不履行へと方向転換させることになるのだ。鳩山叩きは、基本にある日米軍事同盟を不問に付すことで、このようなDV家族で起こりがちな不毛な母子の対立と似通っている。



 少し長いけど、うまく要約できなかったので引用しました。ここでは比喩として信田先生は、父の暴力=アメリカとし、そこを不問に伏すことがDVと似ているとしています。しかし、信田先生の記事を読むと、中国の軍事的圧力を不問に伏し、基地を無くすか無くさないかの問題に方向転換させてしまっていると言え、まさに信田先生自身がDVを再現していると言えます。信田先生ほどの臨床心理の専門家であっても、このように自分自身の問題は棚上げしてしまう、まさに逆転移が起こっているのだから、僕も反面教師として学んでいかねばならないと思いました。


前回の記事の続きです。

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日本臨床心理士養成大学院協議会反対声明見解ですが、一通り読みました。簡単に要約すると、

(1)新しく作る国家資格は基礎系の比重が大きく、臨床的な資格ではない。
(2)これまで行われていた臨床心理士を養成する大学院教育が無に帰してしまう。
(3)今ある臨床心理士の資格を国家資格にする努力をするべきだ。
(4)新しく作る国家資格に賛同している日本臨床心理士会は臨床心理士の職能団体としては失格である。



といった感じでしょうか。率直なところを言えば、理念や理想としては共感できるところも多々あります。確かに新しい国家資格はどちらかといえば基礎系心理学に偏り、臨床に特化しているようには思えません。また、学部卒で資格が取れるということはそれだけレベルの低いものになってしまうでしょう。特に大学院教育を経てない場合、研究能力が育っておらず、単なる技術屋になってしまいます。科学者―実践家モデルというのがありますが、これは臨床と研究の両方ができることによって、より良い援助ができるというモデルです。

現在の臨床心理士の資格も問題点はあり、もっとレベルの高いものにしなければならないのに、その臨床心理士の資格よりもレベルの低いものになってしまうのは国民の益にかなわないという論理は分からなくもありません。

しかし、現実を振り返った場合、いくつか難しい点もあるようです。まず、民間資格がそのまま国家資格になった例というのはほとんどないと聞いたことがあります。既得権益の問題があるからでしょうか。そうなると臨床心理士がそのまま国家資格になるのには大きなハードルになってしまいます。また、現行の臨床心理士の資格のままだと関連団体との調整が難しいということもありそうです。さらに、今のまま国家資格がない状態が延々と続くことこそが国民の益や臨床心理職の職業的安定にかなっていないということもあります。ある程度の能力を担保する臨床心理職の資格がないため、適切なところで相談をすることができず、結果的にニセカウンセラーの被害にあっている国民やクライエントは想像以上に多いでしょう。また、臨床心理士も不安定な中で仕事を行っており、それは少なからず業務に影響を与えます。

このようなところから、大学院協議会の理念は分かりますが、はらぶろのはらさんが書いているように対案やその具体的方策はないし、臨床心理士至上主義的なところは関連諸団体から受け入れられず、もし仮に臨床心理士がそのまま国家資格化されても孤立してしまうかもしれません。

国民の益になり、臨床心理職の安定につながる国家資格にするためにもっと議論を尽くすことは必要でしょう。各団体の思惑や利権や方針などはもちろんありますが、それを超えて、国民と臨床心理職の人のためになる資格を共同して作れたらと思います。ま、この僕の最後の言葉こそが理想論なのかもしれませんが(笑)


日本臨床心理士養成大学院協議会」は臨床心理士養成大学院の元締めみたいなところですが、今進められている臨床心理職の国家資格に対して反対声明と見解をホームページ上で出したようです。

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反対声明

見解

これに対して蜂の巣をつついたように、色んなブログで様々な意見が出ています。

裕さん

つなでさん

はらさん

僕は時間もないので、まだ反対声明と見解を熟読してないのですが、とりあえず印刷したので、明日の暇な時間を見つけてゆっくりと読んでみたいと思います。

斜め読みをした限りでは、臨床心理職の国家資格化への強い反対があり、言うなれば「臨床心理士同士で仲間割れ」をしているような印象です。

とりあえず簡単ですが日記にアップしました。


平井正三(著) 「自閉症への精神分析的アプローチと拡充技法」 精神分析研究54巻2号 pp37-48. 2010年

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 自閉症とは、コミュニケーション・言語・想像性に問題がある先天的・遺伝的疾患で、基本的に症状は不可逆的で、生涯にわたって問題は継続します。現代的にはその治療方法は確立されているとは言えませんが、主に行動療法を中心とした援助や環境療法とも言えるTEACCH、親支援があります。そして、一般的には精神分析のような技法は中心的に使われることはありません。

 ただ、自閉症に対する精神分析的な援助や研究はイギリスを中心として細々と続いています。クラインのディック症例は自閉症と言われており、その研究が礎石となっています。その後、メルツァーやタスティン、アルバレズなどがクライン学派が自閉症研究を行っています。著者の平井も分析家の資格はないものの、イギリスでクライン学派を学び、日本で自閉症の精神分析的研究を行っている数少ない臨床家・研究者です。

 平井はこれまでいくつかの自閉症に関する研究論文を書いており、その布石の上で、本論文が書かれています。精神分析はフロイト・クライン以後、患者のさまざまな症状や言動の背後にその象徴的意味の存在を仮定し、それを扱うことが基本事項とされてきました。その為、いわゆる「解釈」という分析家の仕事が大きな役割を担ってきました。しかし、自閉症の場合にはその象徴的意味そのものが破壊されている、もしくは育っていないため、そのような精神分析的作業は不可能とまではいかないまでも、大きな困難に直面してしまいます。そこで、タスティン以後の自閉症を対象とする分析家は、積極的に・直接的に関与していく技法に修正していきました。すなわち、解釈するべき象徴機能をまずは育てていく技法を展開していきました。本論文で平井が述べている「拡充技法」はその延長にあるものと説明されています。

 本論文のメインテーマである拡充技法とは「セラピスト-子どもという直接的関係における投影同一化作用の増強」と「遊びの中への投影作用の増強」のことを言い、4つのヴァリエーションから成っているようです。詳しくは本論文を読んでもらえたらと思いますが、簡単にいうと、まだ育ちきれてない自閉症児の情緒を分析家が言語化し、患者に投げかけていくというものです。もちろん、ここには逆転移と中立性という大きな問題が関与していることは言うまでもありません。

 その後、事例を通してこの拡充技法を紹介しています。ここでは拡充技法を自閉症児に適用したら良くなった、という論調で書かれており、それはもちろんその通りだろうと思います。しかし、僕の推測ですが、最初から拡充技法を適用しようとして事例に当たったのではないでしょう。さまざまセッションの場で生じることを今ここでの文脈で理解し、プロセスの中で試行錯誤をまずはしていたのだろうと思います。そして後で振り返ったときに、この拡充技法のようなことがあったのではないかと考察しているのでしょう。これは何もこの論文だけではなく、ほとんどの事例論文はそうだと思います。患者と会っているときに、ああだこうだと難しいことを考えて論理的に技法を適用してということはほとんどありません。分析家と患者が生身の身体でぶつかりあい、そこで体験される生き生きとした情緒を味わうことが臨床だと思います。それを後で振り返ることによって考察しているのであろうと思います。

 そして最後に平井は「遊びを主導することではない」として、精神分析的遊戯療法の原則に反しない、と書いています。さらっと書いているだけですが、これはとても大きな問題をはらんでいるところだと思います。すなわち、そもそも「精神分析とは何か?」といった壮大なテーマがここにあるからです。

 精神分析はいわずとしれたようにフロイトが創始し、初めはヒステリーの治療技法として使われていました。それが対象疾患の幅が広がりもしましたし、そもそも症状除去だけが精神分析ではないとまで言われるようになりました。精神分析とは何か?ということを論じることは大きなテーマであり、それを突き詰めることはできませんが、簡単に定義すると、「真実(あるがままの自分)に出会う方法であり、カウチもしくはプレイを用いた週4回以上のセッション」といえます。この定義にはもちろん異論はあるでしょうが、とりあえず僕はこう考えています。

 この定義の前半部分の「真実に出会う」の部分ですが、これはまさに本論文で書いている、観察-解釈モデルで通用しうるものです。すなわち、さまざまな転移や防衛、抵抗によって患者は真実の自分を覆い隠しているので、それを理解し、あるがままの自分を発見するというモデルです。しかし、本論文において、患者の心にあるものが育っていないので、それを育てていく、ということは成長モデルともいえます。それの良し悪しは置いておくとして、「真実に出会う」というのとは多少違うようにも思います。成長した後に真実に出会うこともできる、という風に捉えることもできますが、難しいところです。

 最近の僕の研究にも関わっているところなので本論文を読みましたが、精神分析的に自閉症児を援助するとはどういうことか?そもそも精神分析とは何か?ということを考えさせられました。


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