発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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メラニー・クライン(著) 「転移の起源」 1952年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp61-72

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 精神分析が他の心理療法や心理治療と一線を画する一番のオリジナリティと言えば、この転移についてである。他の心理療法でも折衷的な人は転移という言葉を使ったりするが、これを直接扱う技法はほとんど持ち合わせていないであろう。転移を扱うことがイコール精神分析というわけではないが、精神分析技法において転移は大変重要な位置を占めていると言える。

 ただ、転移は過去の重要な人物との反復である、という誤解をされることが多い。フロイトは1912年の「転移の力動性について」で、転移を単なる過去の反復であるとは言わず、過去の人物との間で満たされなかった気持ちや感情が現在の人物との関係の中に持ち込まれるものである、としている。ここが微妙な違いでありつつ、重要な違いでもある。

 そしてクラインはこの論文においてクライン流の転移の理解や扱いについて詳細に述べている。すなわち、人生の最早期の対象関係との関連を転移を絡めて論じているのである。フロイトは人生の最早期には対象関係はなく、自体愛と自己愛の世界に没入しており、対象関係はないとしている。その為、転移は現れないと考えているようである。このことから、プレエディパルの時期に固着を持つ精神病については転移は起こらないので精神分析は不可能であると言っている。しかし、クラインは自体愛・自己愛に先んじて対象関係は存在しているので、プレエディパルの時期に固着をもっている患者も転移は起こるとしている。すなわち精神病の精神分析も可能であると言っている。ここがクラインとフロイトの大きな違いである。クラインはそういう意味では精神分析の適用を大幅に広げたと言えるであろう。

 また、現代的には転移は逆転移と不可分のものであり、転移解釈の際には逆転移の吟味が重要であるとされている。しかし、クラインは本論文でもそうであるが逆転移についてはほとんど触れていない。ハイマンが1950年に「逆転移について」という論文を書いたが、クラインはそれに対して、逆転移は治療の妨げになるので、安易な活用は危険であるといったことを主張し、ハイマンとの関係に亀裂が入ったようである。この点に関しては色々な意見があるだろうが、確かにクラインのいうように安易に逆転移を治療に生かすことの是非は検討していかねばならないだろう。十分な訓練分析と治療経験がなければ、逆転移は単なる治療者の個人的病理の表出にすぎなくなってしまうのである。しかし、逆に言えば、十分な訓練分析と治療経験をすることで逆転移を活用していくことは可能である。治療に生かすというレベルにはいかなくても、多かれ少なかれ起こっている逆転移を認識していくことは大切であると思う。逆転移を無視するという逆転移が起こっていては意味がないのである。


メラニー・クライン(著) 「精神分析の終結のための基準について」 1950年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp55-60

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 何事にも終わりというものはあり、それは精神分析と言えども例外ではない。クラインはこれまでの経験からクラインなりの終結の基準について本論文で述べている。簡単に要約すると、迫害不安と抑うつ不安が緩和され、自我の安定性と現実感が増大し、幻想生活と情緒を自由に体験する能力を得て、さらには喪の仕事が果たされること、を挙げている。本論文は6ページほどの短いもので、特に込み入った議論をすることもなく、クラインの考えを提示しているだけといった感じである。

 精神分析の終結というと真っ先に思い浮かべるのがフロイトの1939年「終わりある分析と終わりなき分析」である。フロイトは初期には精神分析が万能の方法であるといった多少マニックな考えを持っていた。しかし、さまざまな思想の変遷を経て、徐々に自分自身の死が近づくにつれ、精神分析の限界を考えるようになったようである。その中で生み出されたのがこの論文である。ここでは精神分析の限界などについて書かれており、多少抑うつ的なトーンに彩られている。精神分析は本当に役に立つのか?といった議論まで延々とされている。

 このフロイトの精神分析の終結についての延々と議論をし、自問自答し、限界があるのではないかといった結論を導き出しているところと、このクラインの「精神分析の終結のための基準について」に書かれている楽観論とを比較すると大きな開きが感じられる。誤解を恐れずに言えば、クラインの論文は軽い感じなのである

 しかし、僕もそんな偉そうなことをいえる立場ではなく、実際的に精神分析をきちんと終結に持っていったケースなどは本当に数少ない。ほとんどが中断したり、そこそこのところで終了となったりすることが多い。もちろん、だからといってそれらが全然ダメと卑下することもしないが、満足しているともまた言えない。終結は単なる時間の区切りであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのかもしれない。中断・終了・終結は単に終わり方を分類しただけであり、その本質はもっと別のところにあるようにも思う。もっと言えば、終わり方はその人のありようの一部であり、それこそが分析の対象にもなるのかもしれない。


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