発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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メラニー・クライン(著) 「子どもにおける良心の早期発達」 1933年
メラニー・クライン著作集3巻 ”愛、罪そして償い” 誠信書房 pp3-14

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 フロイトは1920年の「集団心理学と自我の分析」と、1923年の「自我とエス」において、超自我の概念を作り、ここで精神分析における構造論が完成した。そして、クラインはこの超自我の概念をクラインなりにアレンジし、クライン学派という一大グループとなっていった。

 そのアレンジとは、フロイトは超自我を5歳以降のエディプスコンプレックスの解消と共に成立するものとしていたが、クラインはそれ以前の乳幼児期から超自我は存在するとした。また、フロイトの言っている超自我とは多少性質も違い、クラインのいう超自我は大変破壊性が強く、厳しく、過酷で、乳幼児の自我を圧迫し、強い不安を押し付けるものとしたのである。またその過酷な超自我はもともとは乳幼児のサディズムに端を発しており、サディズムが強ければ強いほど超自我も強くなるのである。さらに、さの超自我は外界にも排出され、それは迫害的・被害的な不安をも喚起するのである。そして、フロイトは超自我を父親からの取り入れとして記述していたが、クラインは過酷な超自我は親の性質に似ているが、基本的に生得的に備わっているものとしているようである。そして、反社会的・犯罪的な行動は、一般に理解されているように、超自我の欠如によるものではなく、逆に超自我が強いがゆえに起こるとしている。このことから、分析の目的は、過酷な超自我からの圧迫を低減させることにあるとしている。

 この辺りのアイデアが現代的なクライン派・対象関係論といった精神分析にも受け継がれており、自我心理学と一線を画するところとなっているのは明白である。精神分析の中で、この超自我を転移の文脈に応じて解釈していくことにより、超自我の圧迫は力を緩め、患者本来の制止されていた、押さえ込まれていた欲動が自然な形で扱えるようになるのであろう。まさにここにワークスルーが展開すると思われるのである。

 確かに僕自身の臨床を振り返っても、重篤な患者になればなるほど、超自我の圧力が強かったり、迫害的な心性を持ち続けることが多いように思う。なかなか最早期にまでさかのぼる分析をすることは難しいのであるが、このような理解を背景にもっておくことによって、心にスペースを持ちながら対応することができるように感じる。

 さらに、この論文の最後でクラインは精神分析の未来についても語っている。クラインは「分析によってすべての攻撃衝動を消去することは出来ない」と前置きしつつも、「人間の生活全体へと及ぶべく運命付けられている」と言ったり、「学校教育と同じように子どもの精神分析が育児の一部となる」と言ったり、かなり精神分析を万能的・魔術的に捉えているようであった。もしくはマニックになっているのかもしれない。残念ながら2009年現在ではクラインが想像したようなユートピアは作られていないが、クラインが見出したサディズムとそこから生じる過酷な超自我/迫害不安は現代の精神分析や心理臨床に大きな貢献をしているのは事実である。



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 ようやく本書の最後まで読み進めることができてホッとしているのが正直なところである。最後にこれまでクラインが力強く語ってきた児童分析が万能ではないということを記述している。印象ではあるが、今までのアグレッシブな口調から多少トーンダウンしているようにも見えなくはない。

 この章は6ページという短い量ではあるだけに、端的に、シンプルに、分かりやすく記述されているところが特徴である。そして、クラインは「たとえ充分に行われた治療においても、それは子どもの前性器的な固着点とサディズムの強さを減弱するだけであり、それらをすべて取り除くわけではない」と言っている。完全な治癒というのはないということをクラインは言っており、それはフロイトが1937年の「終わりある分析と終わりなき分析」で書かれているような精神分析の限界について一歩先に記述しているようにも思えるところである。

 現代では精神分析の限界についてはもう少し色々とありそうである。虐待や犯罪被害、金銭問題といった現実的な対応を臨床家としては迫られることは多く、その対応にはやはり現実への介入が必要になってくることも多い。さらに、自分自身について考えることをニードとしてもっておらず、そこは触れないでもらいたいと直接的に言う患者もいる。現代ではインフォームドコンセントという概念があり、それにのっとることが必要であるとされているのだが、患者のニードに合うものを提供しなければならない。そこで精神分析を選択するチャンスというのは、多くの場合はない。僕も数多くの患者を抱えているが、その中でも精神分析的セラピーを行っているのは、約1割程度である。その他の約9割はサポーティブなセラピーやガイダンスを行っている。このようなところも精神分析の限界であろうとは思うが、クラインはもちろん触れてはいない。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 前章では女の子の発達であったが、その続きとして男の子の発達を本章では論じている。クラインは、男の子は早期の段階においては女の子と一緒の発達ラインをたどる、としている。すなわち、口唇期における欲求不満が、母親のおっぱいに対してサディスティックな攻撃性を向けるというものである。そして、この欲求不満とサディスティックな攻撃性から、父親に対する愛着へと向け変えられるというのである。この父親に向け変えられた愛着をクラインは女性的段階と言っている。しかし、このようなサディズムに対する報復を母親から受けるのではないかという男の子の不安は強いのである。この不安を乗り越えるために、サディスティックに攻撃してしまった母親を修復し、良い母親対象を獲得できるのかによっているのである。ここでは明確には述べられていないが、後の「償い」の概念に近いものがここで表現されているようでもある。そして、この女性的段階やサディズムを克服していくことが、健全な異性愛を獲得していく鍵となるとクラインは結論している。

 フロイトは発達については性的な欲動の働きが重要と捉えているが、クラインはそれに加えて、サディズム・攻撃性・破壊性が重要としているところにクラインらしさがあらわれているように思う。この発達を性から攻撃に視点を移すことにより、フロイトの時期には混乱していた、男の子の発達と女の子の発達の矛盾やそぐわなさが多少なりとも薄まっているようにも感じるところである。

 そして、本章の後半では、二つの症例を通して男の子の発達について考察をしている。一つ目の症例は強迫や妄想をもった同性愛の男性、二つ目の症例は抑うつを呈するこれもまた同性愛の男性である。ここでクラインは症例を通して、サディズムの発達や性的発達について色々と論じている。しかし、クラインの書き方の特徴なのか、実際に症例がどのような連想をしたのか、クラインがどのような解釈を行ったのかが、全く記述されておらず、クラインの考察した結果のみが書かれている。このことから、どのような転移があり、そこにどのように空想が現れ、どのように展開したのかが見えないので、あまり理解できないように感じてしまうのは否定できない。

 さらに、本書は「児童の精神分析」ということで、メインは子どもや児童なのだが、ここでは成人の症例を提示しているので、一瞬不可思議にも感じた。しかし、成人の中に子どもを見ていくのが精神分析であるし、今ある症状は幼少期の何らかの固着との関係があるから、成人を見ようが、子どもを見ようが、それはどちらにしても同じなのかもしれない。これは精神分析の独自性にもつながるが、基本的には精神分析では正常と異常という考え方をしないし、そういう分け方をしない。色んな精神疾患や精神障害、精神症状があるが、それはすべて幼少期の各段階において体験するものなのである。例えば、妄想や幻覚といった症状は、生まれてから3ヶ月ぐらいまでの間に体験するものなのである。抑うつにしても、3ヶ月~半年の間に子どもは体験しているのである。そして、成人になってからのそういった症状は、過去に体験した、もしくは固着している心的なありように退行し、そこでやり残したワークをもう一度体験しようとしているだけのことなのである。だから、正常という考え方自体が精神分析にはなく、しいていうと皆が異常なのである。

 時折、精神分析に対する批判で、異常な心理を分析して、それを正常な心理に当てはめている、といったものがある。それは異常と正常という分類をし、その間には全く関連性がないとしている人からすると、そう見えてしまうのかもしれない。しかし、異常も正常も価値観一つで変わってくるものであるし、その見方がどれほど妥当性のあるものなのかは疑問である。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 本章はこの本の中でも一番多くのページを割いて書かれており、54ページからなっている。それほどクラインは力を入れたかったところなのかもしれない。また同様の内容を繰り返しており、強調したい気持ちは分かるが、助長的すぎて、逆に分かりにくくなっているように感じた。

 この章でクラインが言いたいことは、女の子の心理性的な発達がどのように変遷していくのかということである。精神分析はジェンダー論者やフェミニストから女性蔑視であるといわれのない誤解を受けることが多いが、その一つのやり玉はフロイトのエディプスコンプレックスや男根羨望などに向けられている。実際の発達ラインはおいておくとして、精神分析の中で見られる幼児的空想がそのように展開されることが多いし、それを扱っていくことがセラピーを進展させていくことはよく知られていることである。このことから、精神分析では空想のものとして理解することが多いが、誤解する人たちはこれを現実のものとして理解してしまうところがあるのかもしれない。

 話はそれてしまったが、クラインはフロイトの考えた発達ラインを元に、彼女なりに同意したり、否定したり、アレンジしたりしている。クラインが考える発達、特に女の子の発達は、元々のサディスティックな攻撃性を持っているが、それが投影されて母親からサディスティックに破壊されるという不安を抱く。そこでミルクを与えてくれる良い対象と、破壊してくる悪い対象に分裂する。そして、母親から父親を奪い、口唇的満足を得ようとする。しかし、その父親に対してもアンビバレントを持ち、悪い父親にはサディスティックな衝動を、良い父親からは取り入れを行う。このことから、フロイト以上にサディズム・破壊性・攻撃性というものを重要視しているようである。というもののようであるが、こういう理解であっているのか不安である。正直なところ、分からない・理解できていないというのが率直な感想である。

 たぶん、幼児の精神分析を通して、プレイや転移を受け皿として展開する空想からこのような理論をクラインは構築したと思われる。その為、かなり早期の空想状況がクラインには見られたのであろうし、そこでは幼児的な思考にならなければ分からないのかもしれない。本を読んでいると、どうしても大人の思考になっているので、なかなか理解しにくいのかもしれない。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 アンナ=フロイトとクラインの大論争は有名であり、その論争を通してそれぞれの学派は独自性を築いていった。アンナ=フロイトは自我の防衛機制の精微化に努め、自我の成長といったことを重要視した。反面、クラインはプレエディパルの時期に注目し、攻撃性や破壊性を重視し、転移空想をどのように扱うのかを重要視した。この論争は1938年にS.フロイトとアンナ=フロイトがイギリスに亡命したことをきっかけに起こっており、本書が執筆された1932年には、まだそこまで対立が明確になっていなかった。

 このためか、本章ではクラインは自我の重要性についてかなりつっこんで触れており、あたかもアンナ=フロイトの言葉であるかのような、「現実の適応を助け、自我の成長を促す」といったような自我心理学的な見方をしている箇所もあった。もちろん、クライン流の早期の不安状況や、エディプスコンプレックス以前の生得的で過酷な超自我の理論なども書かれているのだが。

 しかし、本章だけではないのだが、クラインはあちこちで「フロイトの理論と私の理論は共通性がある」と力説している。やはり精神分析の祖としてのフロイトに正当な継承者であると思いたいのであろうし、フロイトに認められたいという強い気持ちがあるのだろう。特に1925年に訓練分析家であり、師でもあるアブラハムが亡くなり、その後、精神分析の僻地であるイギリス・ロンドンに流れてしまったという経緯も関係している。ジョーンズが盛り立ててくれていたとはいえ、クラインが真に理解され、受容され、認められるという経験は少なかったのであろう。また、この頃になると、遊戯分析のパイオニアとしての地位も確立しつつあり、ますますクラインの中の子どもの部分は満足を得ることができなかったのかもしれない。そのような中でフロイトに認められることや、フロイトの正当な継承者であることがクラインの唯一の心の拠り所だったのかもしれない。

 このようなところから、まさにクラインの著作はフロイトに向けて書き続けられているのであろう。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 強迫神経症は、手洗いや確認などを何度も繰り返す強迫行為や、無意味なことや汚いことを何度も繰り返し思考してしまう強迫観念の2種類がある。現在では生物学的な研究が進んでおり、SSRIが著効することが分かっている他、認知行動療法などによる暴露反応妨害法などが適用されることが多い障害である。その強迫神経症であるが、フロイトの時期にヒステリーと共に精神分析の適用となる障害とされ、強迫神経症の精神分析事例として臨床データが積み上げられてきていた。特にラットマン症例やウルフマン症例は有名である(ウルフマンが強迫神経症かどうかは疑わしいが)。その中でフロイトは強迫神経症の病理について、肛門期への固着があり、隔離や反動形成といった防衛機制が強く関係していると理解していた。

 この強迫神経症について、クラインはこの章において、フロイトやアブラハムなどを参照しつつも、独自の強迫神経症理解を展開している。まずクラインはフロイトのラットマン症例やウルフマン症例を取り扱いながら、フロイトが想定しているよりも早期の発達が重要であると主張している。そして、「強迫神経症は非常に早期の精神病的状況を救おうとする試みである」としている。こうなってくるとフロイトが考えたような肛門期固着とは違ってきており、大変重症な病理へと理解しなおしているのである。

 しかし、このクラインの強迫神経症の理解であるが、僕自身の臨床からも納得ができるところは多い。というのも、強迫神経症は、不安神経症・恐怖症・ヒステリー・抑うつ神経症・パニック障害といったその他の神経症の患者と比較しても、多少病理が重たい例が多く、強迫の型が現実検討力を失い、パラノイックな展開を時に見せることもある。どこで聞いたか忘れたが、強迫神経症は自我とエスとの間の境界が甘いところがある、ということを聞いたことがある。そのことから考えても、早期の不安や発達が容易に出てくるということも分からないでもない。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
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 補遺 児童分析の範囲と限界




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