発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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 この章では、乳幼児の早期の心のありようをクライン流の表現で細かく描写がされている。それによると、子どもの心の中は、サディスティックで、迫害的で、攻撃性に満ちたドロドロとしたものであり、他のどんな理論家の語る子どもの心よりも殺伐とした恐ろしい世界である。後の妄想分裂ポジションに関係するところかもしれない。このような世界を乳幼児は実際に体験しているのかどうかは分からないが、現実の統合失調症などの精神病水準の患者は確かにこのような体験をしており、それらが乳幼児の心のありようと繋がっていると言えなくもないかもしれない。ただ、このあたりの理論については多数の反論があり、そこからウィニコットなどの独立学派ができていったという経緯もある。

 また、良い対象/悪い対象という表現がここでは使われており、部分対象関係の考え方がここで既に展開されている。まさにスプリットという原始的防衛機制が優勢に活動しているということであり、ここが対象関係論的視点の元と言えるところだと思う。

 しかし、本章で表現されているようなおどろおどろしい世界はもちろんクラインの上に転移として展開されていたのだろうと思うと、それに耐えて、扱い続けることの大変さはやってみなければ分からないところかもしれない。なので、これらのことをワークしていくことは大変な作業が必要となる。フロイトの時期に比べたら、回数も年数も格段に長くなっていったのも分からないでもない。フロイトの精神分析は長くても1年ほどで、短かったら半年で終了していたこともあったそうである。扱っていかなければならない問題が増えていき、また深まっていくことで、精神分析は他のセラピーでは考えられないぐらい長時間を要することになっていったのであろう。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 精神分析に対する誤解はたくさんあるが、その筆頭に来るのがこの性に関することだろう。特に小児性欲について誤解をしていることが多く、人によっては「子どもと性を結びつけるなんて持っての他!」と嫌悪感をあらわにすることもあるかもしれない。特に20世紀初頭はそういうことが多かったようである。しかし、精神分析で述べる性というのは、成人の性器的なリアルな性交だけを指しているのではなく、もっと広い意味で、人とのつながりや人に対する関心、愛着といったものまで含めているのである。

 また、子どもの相談を受けていると、親御さんから子どもの性的な活動について話を聞く事はよくある。「この子はよく”チンチン!”って叫ぶんですよ(笑)」といった笑い話から、性器いじりなどの習慣的なマスターベーションの問題に困ってる話からさまざまである。さらには、小学生のスカートめくりなどのいじめ・いたづらもこれらに含めても良いだろう。もっと深刻な問題になると、子どもに対する性的虐待などもある。これらのことを考えても、子どもと性とは密着な関係があり、時と場合によっては重大な問題になることもしばしばである。

 この7章でクラインが提示している症例も大きな問題を抱えているように思われる。第1の症例は6歳と5歳の兄弟間の性的行為である。相互的なフェラチオやサディスティックな性的攻撃などが行われているようである。そこには不安と罪悪感、性的願望が蠢いており、発達早期の問題が取り扱われている。またクラインはそこに精神病水準の病理についても示唆している。第2の症例は14歳の兄と12歳の妹の近親姦の問題である。兄は罪悪感を持ち、妹は持ってなかったようである。両親からの禁止された幻想が、二人がお互いにその受け皿になっており、近親姦に至ったというような結論をクラインは記述している。この2つの兄弟姉妹の症例はかなり問題が大きく、一般の事例よりも逸脱はしているが、その分だけ、子どもの性にまつわる幻想などがよりリアルにプレイの中で展開しており、大変分かりやすいと言うこともできる。

 性というのは、ある部分では欲望満足・欲求充足である。そして、常にそれを満たそうとする。しかし、満たされたらそれで話は終わりなのかというと、そうではなく、満たしたら満たした分だけ罪悪感もまた募る。罪悪感は超自我的な禁止が働いているのである。ここに満たしたい思いと満たしたくない思いといういわば相反的な願望がアンビバレントとなり、心の中で折り合いがつかなくなってしまう。このようなアンビバレントは性にまつわることだけではなく、もっと抽象的で高次元の願望でも同様に表れるだろう。

 しかし、性的活動という話からはずれるかもしれないが、この2つの症例、4人の子どもはそれぞれ兄弟姉妹である。その両方ともクラインが分析をしていたようである。家族をそれぞれ同じ分析家が対応することは大変な困難が伴うことだろうと思う。僕も経験があるが、家族力動に挟まれ、誰が誰の味方をするか、自分の陣営に引き入れるか、誰と結託しているか、誰が敵なのかが錯綜してしまう。転移がばらけるとも言えるし、現実的な影響が強く、純粋に転移を扱うことが難しくなってしまう。このような問題をクラインはどのようにさばいていったのかがとても気になるところである。しかし、この時代の精神分析というのは、こういう構造での分析は結構あったのかもしれない。フロイトは自分の娘であるアンナ=フロイトを分析していたし、ジョーンズは自分の娘をクラインに分析させていた。クラインはウィニコットに自分の娘を分析させ、そのスーパーヴィジョンを行っていた。被分析者と結婚した人もいたようである。このように、現実的な関係が深く分析状況に影響を与えている中で精神分析が行われていることが多かったようなので、兄弟を一人の分析家が精神分析をそれぞれにするということは全然普通のことだったのかもしれない。現代では、家族や知り合いを分析することはしないし、兄弟や家族がそれぞれ来たとしても、もし可能なら別々の分析家が分析することが一般的だろう。家族療法などでは違うと思うが。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 この章では、クラインによる治療の指標について論じられている。何を問題とし、何を問題としないのか、そもそも問題とは何なのか、ということは大変難しく、また微妙なことである。例えば、反抗期の子どもが親に対して暴言を吐いたり、家に寄り付かなくなることは親にとっては一大問題であるが、発達の過程から見れば、それは自立への表れであり、無くてはならないことである。反対に、全く親に従順で大人しく静かな子どもがいたとして、それは親にとっては大変育てやすく、何の問題にも思えないだろう。しかし、他者に依存的で、自分の主張が出来ず、様々な鬱憤やストレスを内に溜めている恐れもあり、それが健康であるといえるかは分からない。

 クラインは子どもの問題の一つの指標として、知識への抑止、活動の抑止、遊びへの抑止を挙げている。子どもは自由に遊び、自己を表現し、色々なものを取り入れていくことが大事であるが、それが何らかの理由から阻害されていることをクラインは重要な問題と見ている。特に性的なものに対する抑止を重視しているようで、それはクラインが初期の論文から主張し続けていることである。精神分析の一つの目標に、自由連想ができるようになること、というのがある。これは何かと言うと、精神分析的セッティングでは自由連想をすることを被分析者は課せられるのだが、実際に自由連想をすぐにできるケースというのはほとんどない。というよりも、自由連想が出来るというのは不可能なことであり、いわゆる努力目標とするのが妥当なのである。自由連想ができないのは、そこに抵抗や転移があり、それを解釈によって解消していくことが精神分析であるとフロイトはしている。後のクライン派や対象関係論では多少異なってくるが、基本スタイルはそうである。クラインは遊びと自由連想を同等のものとしているのであるが、このことから考えても、子どもに遊びの抑止があることそのものが問題としているのは分かるような気がする。クラインは自由連想と同様に、遊びが抑止されるのはそこに抵抗や転移があるので、そこを解釈していくが重要としている。また、クラインは特に性的な問題を取り扱っていくことに重点をおいているようである。

 またクラインは、すべての人は神経症と精神病を通過している、と大胆なことを言っている。発達のある過程と、顕在化している精神障害との類似は今日では一般的に知られていることであるが、クラインはこの時点ですでにそれを指摘しているのかもしれない。後期クライン理論では、妄想分裂ポジションは生後すぐから2~3ヶ月の乳児に体験されていることであり、抑うつポジションは半年ぐらいまでの幼児には体験されていることである。その心性は心を作る部分として成人になってからも存在しており、それが何らかの要因により、退行して、乳幼児の心性が表に出てくるのである。それがいわゆる精神障害として理解されるのである。現在の生物学的精神医学とは真っ向反対のことかもしれないし、これが本当はどうかは分からないが、そのような観点からセラピーや分析を行うと大変よく理解できるのである。そう言えば、日本の分析家である小倉清先生はいつかのセミナーで「すべての子どもにきちんとした精神分析を行えば統合失調症はこの世からなくなる」といったことを言っていた。ものすごく過激な発言であり、100%賛同できるものではないが、ある部分では理解できる話である。

 そして、治癒をどこに置くのかについても言及している。フロイトは「働くことと愛すること」という命題を残しており、クラインもそれを引用しつつ、子どもではその基準は難しいと考えているようである。いくつか治癒の基準を挙げているが、遊びの抑止の減少、遊びへの関心が深くなり安定する、遊びへの関心が広がる、としている。さらには、成人の神経症の予防効果としての精神分析の価値をも指摘している。しかし、精神分析をする上でのお金と時間と労力といったコストはかなり膨大になってくる。そのようなものをかけてまで予防のために精神分析を行うのは現在的な価値基準では無理がありそうにも思うが。

 最後にクラインは簡単ではあるが、重要な指摘を行っている。それは遊びはマスターベーション幻想の表現の手段であるというものである。このマスターベーション幻想というのが具体的にどういうものを指しているのかは本書で示されている事例を読むと分かるが、子どものさまざまな性的な関心や嗜好性が親などに対して向けられ、さらに自分の性的満足のために奉仕されることだろうと思う。さらに本書ではあまり述べられてないが、精神分析の中における転移の重要性から鑑みると、このような幻想が遊戯療法の中で、クラインという分析家に対して向けられていたのだろうと想像できる。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

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S.フロイト(著) 「詩人と空想すること」 1908年

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 フロイトの論文の中では文化論や芸術論は、臨床実践から少し隔たっていると思っているところがあったので、今まで一応は読んできたが、あまり気をひくものではなかった。しかし、今回もう一度この「詩人と空想すること」を読んで、とても臨床的リアリズムに溢れた内容にかなり引きこまれてしまった。

 この論文でフロイトは詩人の創作物がこれほどまでに人の心に感動を与えるのはどうしてなのか?という疑問から出発している。僕もどちらかというと芸術的センスがないほうなので、フロイトの疑問に同感なところが多い。そしてフロイトは子どもの遊びと空想することとの類似点を挙げ、論を展開していく。こういう着眼点というのはフロイトのすごいところだなと改めて思うところである。

 さらに空想することは、いわゆる精神分析の中の自由連想に当たるものである。ここで臨床実践とのつながりが顕著に表れてくる。ただ、フロイトは空想することを単に願望充足であるとしており、幸せな人は空想することがないとしている。この部分については僕は直感的に同意できないところである。というのも、空想自体はその人の内的世界の表れであり、願望だけではなく、対象世界そのものが顕在化しているものだと思う。また、そもそも全く幸せである人がどれほどいるのかも疑問である。

 そしてここで自由連想と遊びの関係も出てくるのだが、これはクラインが「自由連想は遊びに匹敵する」といった名言まで残しているように、遊びが精神分析の重要な素材になりうることを発見し、そこから今日の精神分析に重要な概念をいくつも提出してきた。特にプレエディパルな世界を描き出すことに成功し、重篤な患者・重症な患者の精神分析的理解に多くの貢献を残してきた。

 論文の後半になるとフロイトは詩人そのものに焦点をうつしている。そこでは詩人は自我をいくつかの部分に分割して、それぞれを人格化して作品を作っていると論じている。ここではフロイトはそれほど詳しく論じているわけではないが、重要な示唆が含まれていると思う。というのも、この自我の分割については、フロイトが晩年に「防衛過程における自我の分裂」(1939)に書いた論文に通じる理論であり、さらにクライン学派や対象関係論学派における投影同一化やスプリットといった原始的防衛機制の元とも言えるのではないかと思う。この時期のフロイトはまだ構造論そのものを概念化していないのであるが、その片鱗が見え隠れするというのも面白いものである。

 たった9ページほどの短いものであるが、単なる芸術論を超えた含蓄が多く含まれた論文であると思う。



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 思春期を何歳から何歳までと定義するのはなかなか難しい問題であるが、だいたいが第二次性徴が始まる時期を思春期の始まりとしていることが多いと思う。ただ、その第二次性徴も文化や地域、時代によって始まる時期が早かったり遅かったりするので、厳密に何歳とするのかはやはり難しい。

 さらに、クラインは思春期の特性について、不安をスポーツといった活動などを通して他者から隠そうとする機制が強い上、横柄で反抗的な態度があり、対応が難しいようである。また、連想があったとしても、無味乾燥な素材が多く、取り扱いに困るようである。そして、解釈がなされないと容易に中断になってしまうということで、やはりクラインもこのあたりで悩んだこともあるのかもしれない。中断はどうして起こるのかということは色々な文脈から言えるのであるが、少なくともクラインは深い解釈を行うことによって中断を防げると考えているようであった。

 実際の分析の方法についてであるが、クラインは遊びと自由連想を併用し、分析の展開によって使い分けているとのことであった。これもパラメータの一つと言えるかもしれない。

 また、最後でクラインは子どもの分析をする上で、成人の分析をするトレーニングを積んでおくことは必須であるとしている。日本においての臨床心理士のトレーニングでは最初に持つケースは子どもの場合が多いようである。大学院相談室という性質上、そうなってしまうようである。子どもの場合、成人のように目的や契約といった構造をしっかりとしなくても、遊びが魅力的ならば比較的継続して来談しつづけ、そして、遊びを尊重しているだけで勝手に良くなっていくという特性がある。その為、大学院生が実習生として子どものケースを持つことが多いのであるが、そこでは本当にセラピーや治療が行われているのかは不明である。単に遊んでいるだけになっているのではないかとも思われる。

 もちろん、大学院での臨床心理士のトレーニングは特に精神分析が中心というわけではないので、同列に並べて論じることはできないところもあるだろうが、このようなクラインの提言には耳を傾けるべきところがあるように思われる。

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第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 潜伏期とはエディプスコンプレックスの解消があって、フロイトでいうところの超自我の形成がなされてから、第二次性徴が始まる前までの時期のことであり、この時期の精神分析はどのようにクラインは行っているのかについて述べている。日本で言うと主に小学校にあたる時期で、言語表現は幼少時に比べて飛躍的に高くなっているが、かといってすべて言語を用いてセラピーを行うのにはなかなか難しいという微妙な年齢であると思われる。また、それは言語表現能力だけの問題ではなく、性的な欲動が一旦は潜在化し、直接扱うことが難しいということも関係しているのかもしれない。

 クラインもこのような問題に直面したのかもしれないが、脱性化された素材をどのように取り扱うのかに多少苦戦している様子がチラホラとみられた。潜伏期は抑圧がある程度しっかりと機能しているため、無意識が隠蔽されて表現されてくるため、そこに届く解釈というのは難しいのかもしれない。

 また、分析の目的を患者がどのように理解するのかについての技法も紹介されている。子どもは大人のように契約関係を最初に難しいため、そのまま分析に導入せざるをえないこともあるようである。そして、解釈を行い、分析の中で分析を経験することによって、「ああ、この部屋ではこういうことをするんだ~!」と体験的に子どもは理解していくようになるとクラインは述べている。確かにそれはその通りだと思うし、もっというと子どもだけではなく、大人でもそういうところはあると思う。契約上、最初にアセスメントをしたり、目的を話し合ったり、どういうことをするのかを相談して、分析の取り決めをする。その時にはどうしても知的な理解にとどまることで満足するしかないと思う。そして、分析に導入し、分析を行う中で体験的に理解していくのを待つより他はない。この辺りについては子どもも大人も変わらないのかもしれない。

 さらに章の最後の方では両親の取扱いについても述べられている。要約すると、子どもの親は分析家に対して嫉妬のような陰性の感情を持っており、表面的には友好的でも、内的には激しい転移を向けているようである。その為、両親は分析を破壊する行動を取りやすいので、分析からは締め出す方向で考える方がうまく行くことが多いとも言っている。しかし、子どもが抵抗を強く起こしている時には両親に子どもを分析に来させるように援助しなければならない。さらに分析がうまくいき、神経症や問題などが解決されても、両親は分析家に感謝はしないとのことである。こう書くと、クラインは被分析者である子どもの両親についてはかなり否定的に見ていたのかなという印象であった。そういえば、ボウルビィもクラインが両親を軽視することに不満を抱き、クライン派を脱退したし、ウィニコットも親子で一つのユニットであるという考えからクラインとの対立もしたようで(もちろんその他の理論の相違もあるが)、この辺りがクラインの独自性とも言えるし、頑固さとも言えるかもしれない。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 1章2章では児童分析についての理論や技法を総括的にまとめられていたが、この3章では臨床素材を用いて、実際の児童分析はどのようなものであるのかを詳細で説明されている。

 ここでの症例は強迫神経症に罹患している6歳の少女エルナである。不眠、抑うつ、過剰な指しゃぶり、多動、人前でのマスターベーションといった症状や問題行動があり、クラインの精神分析を受け始めたようである。来談経緯や来談経路については記載されていなかった。分析ではサド-マゾ的な空想や、両親の性交を思わせる遊びが展開していったようで、その中でエルナの迫害的な不安や制止といった病理がクラインの解釈によって扱われ、症状や問題行動が軽減していったとのことである。しかし、分析は2年半後の575セッションで「外的な理由」によって中断となっている。

 外的な理由による中断というのは確かに臨床をしているとしばしば起こるものである。引越しや進学、結婚、経済的理由、等々が外的理由として挙げられると思う。しかし、確かにそういう事情もあるだろうが、ある部分ではそうした外的な理由をもってくるという行動化でもあると理解することができる。簡単にいうと「治療を辞めたい」と直接言うのは憚られるので、「お金がなくなったから」とか「遠くに行くことになったから」ということにしておいて、治療者との対決を回避しているということである。そこには様々な転移が動いており、その転移を治療者が扱いきれてなかったために、患者は中断ということを通して治療者に何かを伝えようとしているのかもしれない。このような理解がクラインの時代にあったのかなかったのかは分からないが、中断にまつわることを本書では全く記載されていなかったので、不明なままである。

 また、クラインの精神分析は「フロイト以上にフロイト的である」ということを言われている。それはフロイトが中立性・禁欲原則ということを主張しているのにも関わらず、それを破っているのだが、クラインはその中立性・禁欲原則といったことをきちんと守っているというところにその由来があると思われる。しかし、クラインとフロイトとのもっとも顕著な違いは、母親の問題を取り扱っているか否かであると思われる。フロイトは周知の通り、父親との葛藤を軸においた理論展開を行っており、母親の登場はほとんど見られない。それは終生変わらなかった。そこにはフロイトの生育歴・家族歴といったものが関係しているのであろうが。

 反面、クラインはフロイト以上にフロイト的であったが、理論の中では母親との関係について大変重視しており、このエルナの症例についても母親との関係に言及する解釈を多く行っているようであった。多分、エルナの固着点は前エディプス期であり、そこでの母親への愛着や憎悪といったことがテーマとなっているからであろうと思われる。それは強迫神経症ではあるが、フロイトが強迫のメカニズムとして想定している反動形成を中心とした高次の病理ではなく、迫害不安や妄想的特徴といった精神病的な傾向がエルナには強く見られたところも関係しているのかもしれない。

 強迫神経症は現代でも良く見られる疾患・障害であるが、人によってはその強迫観念などが現実検討を失い、妄想的なレベルに発展し、精神病的な世界を垣間見せるケースがしばしばある。同じ神経症でもパニック障害や不安神経症とはどこか一線を画する印象がある。そう思うと、精神病的なものを強迫で防衛しているということなのかもしれない。クラインはエルナの症例について「重症である」と言っているが、エルナのプレイの様子を見ていると、確かに僕もそう感じるところはあった。

 フロイトは神経科医出身であるということも関係しているが、あまり重症の患者は見ていなかったようである。シュレーバー症例は精神病であるが、直接治療した症例ではなく自叙伝を分析したにすぎない。ウルフマン症例は境界域の重症ではあるが、多分フロイトの中で一番重たいぐらいであろう。後年はスーパーヴィジョンや教育分析・訓練分析を中心とした臨床を行っているので、やはり比較的健康度の高いケースしか持ってなかったであろうと推測できる。しかし、クラインは重症の児童の精神分析から始まり、この後は精神病といった重症例を見ていくことなり、フロイトよりもかなり重たい症例を扱っていたところにフロイトの精神分析を超えたクラインの精神分析が発展していったのであろうと思われる。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

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