発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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 この章では実際の遊戯療法・遊戯分析・早期分析について具体的に述べられている。最初に分析室の構造について説明されており、低いテーブルの上に、紙・ハサミ・鉛筆・小さな木でできた男女・馬車・自動車・汽車・動物・積木・家などがあるようである。大人の普通の分析室にちょっとしたおもちゃをいくつか置いたぐらいもののようであり、大人とは大きく違わないようである。クラインは第1章「児童分析の心理学的基礎」で述べているように、大人の精神分析と児童の精神分析は同じであると述べていることをまさに実際に行っているのである。

 ここから分かる通り、日本で一般的に行われている遊戯療法のように、広いプレイルームにたくさんのおもちゃが山のようにあるのとは全く異質のようである。人生ゲームやストラックアウト、お絵かき先生、時にはゲームウォッチなど多彩で機能がたくさんついているゲームから、実際に乗れる小さい自動車や三輪車、大きなボールもあったり、所によっては砂場やボールプールなどもあり、ちょっとした遊園地みたいにもなっている。

 これらのプレイルームの構造のどちらが良いとか悪いとかはないかもしれないが、日本式の多彩なおもちゃがたくさんあるプレイルームであると、刺激がたくさんあり、遊びが拡散していく傾向があるように感じる。またおもちゃも多彩ではあるが、ゲームルールや使用方法が決まっているものが多く、それに従った遊びになり、自由度が低くなり、クラインが言うように無意識が遊びの上に展開する、といったことにはなりにくいかもしれない。もちろん、日本式でも人形はあるし、遊びによってはそこに様々な意味を汲み取ることもできるし、ケースによっても変わるだろうから、一概にこうであるとは言い切れないところもあるのだが。

 そして、内的構造として、解釈の仕方について詳細に述べている。クラインは分析の初期から深層に達する解釈をしていくことが必要であるとしており、そのことを通して不安を抱え、解消していくことができると説明している。当時はこの部分でアンナ・フロイト流の自我心理学との違いを明確にし、大論争にまで発展した部分であるのだろう。しかし、何が深層で何が表層なのかは全く分からないが、クラインも遊びの中に出てきている不安を単に解釈しているだけであるし、その不安がたまたま根源的なものを含んでいたということなのであろう。そして、それが今は緊急的に取り上げることが必要とその場で感じ、考えた末のことなので、そこまで自我心理学が毛嫌いするほどのものであるようには僕には思えなかった。

 さらに陽性転移よりも陰性転移を主に取り扱うといった記載もあり、これは確かに臨床的には至極当然のことと思える。陰性転移を放置することは、患者の治療へのモチベーション低下につながることであるとともに、そこにこれまでの不安や傷つき、怒りといったビビッドな感情が含まれているので、それを取り扱うことは大切なことであると思う。ただ、もっと言うと、陰性転移の裏には陽性転移が、陽性転移の裏には陰性転移があり、そのどちらも扱う必要はあるだろう。そして、それがいきつくと、転移を陽性・陰性と明確に区別ができるものではなく、まさに「転移」としか呼べないものがあるだけだと思う。

 そして、クラインは最初から精神分析に導入できないケースについても言及していた。その場合、非分析的な方法も取ることがあるとしており、プレイに入れない子どもに第三者の同席を許したり、クライン自身が先におもちゃで遊び始めたりすることもあるようである。さらには、子どもに対して、元気づけ、励まし、慰めをすることもあったようで、過度に精神分析にこだわるクラインとは多少印象が異なるようであった。クラインに対する僕の印象は恐いおばさんで、分析以外のことは絶対にしないという固いイメーズがあったのだが、どうもそうではないのかもしれない。このあたりのクラインの技法の融通性は後のパラメータという概念に発展していくのかもしれない。

 また最後に、クラインはP39の脚注で火遊びとおねしょの関連性についても触れていた。そういえば、僕が小さい頃に親から「火遊びをするとおねしょをするぞ」と注意されたり、火で遊ぶ夢を見るとおねしょをすると言われたりしたようなかすかな記憶がある。日本の親はこういう注意をよくするのかどうか分からないが、クラインのこのような所見をもしかしたら日本の親(or僕の親)はしつけの中に取り入れていたのかもしれないと思うと、密かな影響力をクラインは日本に与えていたのかなとも思ったりするが、本当のところはさだかではない。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 臨床心理士・心理臨床家・カウンセラー、呼び名はなんでも良いが、心理臨床やカウンセリングの仕事をする上で、精神科で働くことや実習をすることは必須と言われており、僕も同意見である。本書でも書かれているとおり、精神科で働くことはなくても、精神科に通院・入院する患者さんと接し、そこで体験的に学ぶことによって、精神症状のある人や精神障害の人への対処ができるようになるのである。単にカウンセリングの知識と技術があるだけではカウンセリングはできないのである。

 これらのことから、現在の臨床心理士を養成する大学院教育では精神科の実習はほとんどのところで行われているようである。しかし、実習の方法ややり方については指針・ガイドライン・マニュアルなどはなく、個々の病院・クリニック・大学がそれぞれ手探りで行っているのが現状である。そのような現状から、統一的なガイドを作るまでにはならないが、これまでの経験をまとめていこうとする意図から本書はできたようである。その為、一貫性を持って本書は構成されているとは言えず、羅列的にさまざまな著者が言いたい事を言っているという感じに仕上がっている。

 ただ、これらのことから出来が悪いということでは決してなく、まだ日本全国での共通認識がなされていない現状をそのまま再現しているということができる。そして、それらの雑多な現状から大切なものを抽出し、整理していく作業が今後必要になってくるのだろうと思う。いうなれば、本書はパイロットケースとも捉えることができる。

 内容はというと、臨床心理士をめざす大学院生が実習に行くにあたって、気をつけるべき点、準備するべき点がいくつも挙げられているので、大変参考になると思う。さらには、実習生だけではなく、受け入れる病院・クリニックの担当者や、送り出す大学院担当者にも参考になることが多いと思う。僕自身、今は受け入れる先のクリニックの臨床心理士でもあり、送り出す側の大学の教員でもあり、二重の意味で参考になったと思う。

 そういえば、実習生という立場で僕は精神科に行ったことは実はなく、卒業後すぐに精神科に勤めたのが、精神科との出会いだったことを思い出す。まだ臨床心理士養成が過渡期だったので不十分なカリキュラムの中でトレーニングを受けたが、今のような実習があらかじめ準備されている現状は多少うらやましさも感じてしまう。しかし、不十分だからこそ、自分で各機関に問い合わせて、個別的に実習させてもらっており、そういうところから厚顔無恥ではあるが、度胸はついたようには思っているが。あらかじめ準備されているだけに受身的になってしまうのは弊害と言えばそうかもしれない。

 また、臨床心理士の場合、社会人経験者を除いては、大学院を出るとすぐに仕事をし始め、多くの場合には新人研修・初任者研修を受けることがない。ほとんどの企業・会社では新人研修を行っており、そこで挨拶や電話の受け答えの仕方、名刺の渡し方など、ビジネスマナーを叩き込まれる。臨床心理士は大学院を出てすぐに働くことが多いので、そういうマナーを身につける機会が少なく、悪気はなくても、大変失礼なこと・礼儀知らずなことをしていると思う。かくいう僕も全くそういうことを知らずにきてしまった部類の人間である。そのようなマナーについても、本書は体系的にではないものの、いくつか取り上げており、実務的にこの辺は重要だと思われる。大学院生実習生のマナーが出来ていないこと以上に、実際に働いている臨床心理士のマナーについても考える必要があるかもしれない。

 そして、本書ではリエゾンやチーム医療に触れられているところも多かった。病院というのは他職種がたくさんおり、それらの専門家とどのように連携をとっていくのかが大変重要である。本書のどこかで、仕事に費やすエネルギーは患者3割、他職種7割と言っているところもあるほどであった。他職種に7割のエネルギーを注ぐことで、ひいてはそれが患者に還ってくるということのようである。実習生といっても病院に入るとスタッフの一員であることが強調されており、その心構えをしっかりとすることが求められる。僕も病院で働いていることが多いが、面接室にこもってしまう古いタイプの治療者のようで、このあたりのリエゾンやチームということがうまくできないところがあるので、気をつけていきたいところである。


オリエンテーションとする技法や理論を選ぶ時、人は合理的にはなれない。

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 土曜と日曜は連続で事例検討会。土曜は復職支援の事例で、日曜日は教育相談の事例。

 この二つに参加してやはり思うのは、僕は現実的にガチャガチャと操作するような援助というのは不向きであり、嫌いなんだなと再認識したかな。そういう援助は意味がない、無駄であるということではなく、僕自身が単に合わないということだけ。

 患者の内的な葛藤や空想を扱い、ワークしていくことに魅力を感じる自分がいるのだなと。また、同様にこれらのことが援助技法として必要だとか、効果があるからとか、意義があるからというのでも無いように思う。いうなれば単に好きだからとしか言えないかも。

 究極的には好き嫌いのレベルなんですね。

 多分、人間はそんな合理的に物事を選択したりしていないと思うんですよね。合理的に見えるのは、単に後付で理由をくっつけているからだけ。

 例えば、認知行動療法(CBT)が好きな人がよく言うのは「CBTをしているのはエビデンスがしっかりしているから」という理由。でも、見ていると、その人の趣味・志向・性格がCBTにマッチしているから選んでいるだけ。エビデンス云々はその後の理屈付け。もし仮にCBTのエビデンスが明白ではなくても、何らかの理屈をつけてCBTを選んでいると思う。

 同様に、ブリーフや催眠や精神分析やユングやロジャースや家族療法などなどをやっている人もそうだろうと。

 合理的に選択はしてないけど、でも、その人の人生というコンテクストの中で、なぜそれを選んだのかは結構意味を帯びてくる。選ぶことで人生に肉付けをしている。反復と言い換えても良いけど。

 で、これらの選択は実はセラピーに良い影響も与えていると思う。

 最近は折衷主義とか、クライエントに合わせたオーダーメイドということが言われるけど、そんな単純なものではない。技法の選択は、クライエント要因、関係性要因の他にセラピスト要因があって、そのいずれにもマッチするときがもっとも効果的だと思う。だから、セラピスト自身が嫌いな技法、苦手な技法をすると、効果も半減する。いうなれば、セラピストにとっては技法は「好きこそ物の上手なれ」なのだろうと。



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 クライン著作集2巻は、児童に対する遊戯療法・精神分析についてのテキストであり、1932年までの研究の総集編とも言えるものである。その為、内容も広く深いので、1章ごと区切ってまとめを書いていこうと思う。ちなみに全部で12章ある。

 1章は1926年に書かれた「早期分析の心理学的原則」が下敷きになっている。ここでは児童分析を施したいくつかの症例を提示しており、S.フロイトやA.フロイトが想定しているエディプスコンプレックスよりも早期の心のありようを描き出している。フロイト親子は、子どもは3~4歳頃にエディプスコンプレックスを克服し、その後に超自我を形成するとしており、精神分析が適用になるのはそれ以降であるとしている。しかし、クラインの独自性は、子どもはエディプスコンプレックスより以前に生得的に超自我を持っており、大人のそれに比べて強く過酷なものであり、それを弱めていくことが必要であるとしているところである。そして転移は前エディプス期から形成できるものであり、3歳よりも前に精神分析を適用することができると主張している。

 このようなところから、成人の精神分析と子どもの精神分析は基本的には同じものであり、同様に分析していくことが可能であるし、必要であると強く主張している。違いといえば、自由連想を素材にするか、遊びを素材にするかの違いのみである。A.フロイトの遊戯療法は、子どもには精神分析は適用しづらいので、一緒に遊びながら陽性転移を育て、また教育的関わりも重要であるとしているが、クラインとは全く反対であることが見て取れる。

 さらに子どもの場合には遊びを分析の素材とするが、それは子どもが言語を習得していなかったり、未熟であるからでは"ない"とするところにもクラインのユニークさが現れていると思う。子どもが言葉で内面を表現できないのは、言語の未熟さからではなく、内的な不安が大人以上に強く、うまく表現できないからであると結論づけている。その為、解釈によりその根源的な不安を取り扱うことにより、言葉で表現することが可能になるとクラインは記している。

 このことから、A.フロイトが陽性転移を育てることに重点をおいたが、クラインは陰性転移を扱っていくことに重点をおいたのかもしれない。

<目次>

第1部 児童分析の技法

 第1章 児童分析の心理学的基礎
 第2章 早期分析の技法
 第3章 6歳の少女における強迫神経症
 第4章 潜伏期における分析の技法
 第5章 思春期における分析の技法
 第6章 子どもの神経症
 第7章 子どもの性的活動

第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

 第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
 第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
 第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
 第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
 第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響

 補遺 児童分析の範囲と限界





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 心理療法をしていると必ず失敗は起こるもので、失敗を経験したことがないという人は絶対にいないと思われる。しかし、学会発表や学術論文に掲載されるケースというのは、発表の許可をクライエントに取っている為、成功例ばかりとなり、失敗例が世に出ることはほとんどない。しかし、心理療法の研鑽を考えると成功例よりも失敗例から学ぶことは多いであろう。そういう観点からすると、このような書籍が世に出るということは後進のものからすると大変にありがたいと心から思うところである。

 本書では、まず第1部で失敗の定義や位置づけをしたのちに、先行研究のレビューを広く深くおこなっている。心理療法の研究では個々のケースが大変ユニークなので、マスの研究がしにくいという特徴を持っているが、それでもこのようにたくさんの効果研究がなされているのは意外と驚かされた。簡単にそのまとめを書くが、心理療法を数回でドロップアウトする率は約40~60%で、悪化は10~30%であるとのことである。こうしてみると意外と多いように思うが、心理療法を受けなかった人に比べて、受けた人では約80%が改善しているという報告もあった。

 しかし、本書でも書かれていたが、失敗したからすべてダメというよりも、失敗をどのように取り返すのかという作業をセラピストとクライエントの間で行うことにより、それが治療的に働くということも大いにありうる話である。また、セラピストとクライエントのミスマッチによるドロップアウトがあったとしても、その後別のセラピストにリファーでき、そこで心理療法の効果があれば、それは大きな視点から言うと失敗とはならないのかもしれない。このように失敗が直ちにダメということにはならず、文脈の中で理解して行かないといけないというのはその通りであろうと思われる。

 第2部では、色々な創作ケースを用いて、実際の面接の中でどのように失敗が表れるのかを詳細に説明されていた。マクロな失敗からミクロな失敗までさまざまであり、自分にも体験したことのあるものも多くあり、これまでの臨床を振り返ってしまうこともあった。しかし、第1部では先行研究のレビューを詳細に行い、論述の根拠を明確に示していたのだが、第2部では創作ケースの羅列が多く、調査や実験から得られたデータを根拠にしての論述ではなかった。この辺り、もう少し実際に著者が行った研究を持ってきても面白かったのではないかと思う。

 また、本書の全体的なものであるが、学派や理論を越えて、統合的・折衷的な視点から失敗について扱っており、それはそれで構わないと思う。そうすることによってより包括的に心理療法というものを浮き彫りにできるのだろうから。しかし、僕は精神分析をオリエンテーションとしているからそう思うのかもしれないが、転移や逆転移、抵抗といった分析用語の使い方やその定義、現代的な意味についてはかなり間違っているところが散見された。たとえば、「失敗しないために逆転移を起こらないように精神分析はしている」といった記述などもあったが、逆転移を起こらないようにすることなんてできないし、常にあって当たり前のものなのである。そして、逆転移を通して転移を理解し、ひいてはクライエントを理解していくのが精神分析である。なので、逆転移が起こらないと何もできないのである。もしくは「逆転移が起こらない」という逆転移が起こっているのである。この辺りについては、著者も精神分析が専門ではないということだし、すべての学派の中間地点を取るために、仕方のないところなのかもしれない。もしかしたら、他の学派から見たら、また用語の使い方が間違っている!といった指摘が出てくるのかもしれない。

 また、失敗にはセラピストに見えない失敗、気付かない失敗というものもたくさん挙げられていた。そう思うと、実際の自分の臨床でも起こっているということだろうから、心理療法をすることがちょっと怖い気持ちにもなってしまうところもあった。「大丈夫か?大丈夫か?」と少し自分自身に注意が向いてしまい、クライエントに注意が向けられなくなったら元も子もないなと思うが。

 そのような些細なところはさておき、全体的には失敗について網羅的に論述されており、さらに、様々な視点が用意されているので、読んでいると色々とこちら側の空想や連想が刺激され、身を入れながら没頭してしまうことが多かった。それだけ大変刺激的な内容となっているということかもしれない。特に「研究会や学会ではケース発表者がフロアから失敗を責められ、委縮し、トラウマになってしまう」といったところは本当によく分かるような気がする。自分自身がフロアから発言する時には気をつけていきたいところである。



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 タイトルの通り、認知行動療法(以下CBT)のテクニックを初学者に分かりやすく説明している本。テクニックを行動コントロール、感情コントロール、認知コントロールのそれぞれに分けて具体的に例題を出しながら説明されているので、CBTにあまり馴染みのない僕のような人間でも分かりやすかったように思う。また、最後の第4章はCBTを行う上での一般的心得など概論的に書かれている。

 しかし、CBTのテクニックは結構たくさんあるようで、なかなか全部を覚えることは大変だろうなとは思う。また、本書を読んだ僕の個人的な印象ではあるが、テクニックを粛々と適用し、施行していく感じを受け、なにか心理療法をしているワクワク感といったらアレかもしれないが、そういうのがあまり伝わってこないようであった。

 また、カチっとマニュアル化されているからかもしれないが、本書を読んでいても、あまり連想が沸いてこなかった。マニュアルを読み込んで暗記するという感じで、あーでもない、こーでもない、と空想が膨らむことはなかった。見方の問題かもしれないが。

 ただ、ベテランのCBT実践者にとっては物足りないかもしれないが、新しくCBTを学ぼうとする人にとっては貴重な一書になると思う。



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 クラインの初期の著作を集めた本。クラインは抑うつポジションや妄想分裂ポジション、投影同一化などの理論を整備し、対象関係論の元となるものを創ったのだが、この時期ではその片鱗は見せるものの、理論構成が曖昧だったり、飛躍があったりと荒削りの印象を受ける。しかし、荒削りだからこそ、ものすごいエネルギーを感じるし、クラインの地の部分が見えているようにも思う。

 この本では14の論文が収められており、一つ一つを細かく見ていくことも可能だが、ここでは全体を概観した印象を書くこととする。ちなみにnocteさんのブログ「心の探求、あるいは夜の世界」で週刊クラインvol.1週刊クラインvol.2週刊クラインvol.3としっかりとした書評が書かれているので、参照してみると良いだろう。

 まず第1章の「子どもの心的発達」では精神分析的な養育をした事例を元に書かれている。ここでは知性の制止がどうして起こるのかといったことを検討しているのだが、その理論構成はフロイト理論をきっちりと踏まえており、フロイトや精神分析に強い期待と憧れを抱いている様子がよく分かる。しかし、第4章あたりから、エディプスコンプレックスより前の時期について言及するようになり、第6章「早期分析の心理学的原則」では超自我はフロイトが考えるよりももっと以前から存在しており、それはとても過酷で残虐で悪魔的なものであるというニュアンスで書かれている。さらに第7章「児童分析に関するシンポジウム」ではアンナ・フロイトの児童分析についての批判を攻撃的に展開しており、クラインらしいな~という印象を受ける。その後、攻撃性やサディスティックな心性についても扱っており、クライン学派のクライン学派らしさが徐々に見え始めてくるのである。

 この攻撃性をどのように理解し、扱うのかによって精神分析の学派が異なってくるので、とても重要なところであり、未だに攻撃性をどう位置づけるのかの統一見解があるわけではない。クラインの言っていることが実際どうなのかは僕には分からないが、クライン自身のパーソナリティがこの理論に強く影響を与えていることは否定できないと思う。患者はプレイであれ、自由連想であれ、ファンタジーを転移の上で展開させる。そして、その転移は逆転移とセットのものであり、治療者からの影響もまた同時に受ける。なので、転移やファンタジーは患者だけのものではなく、治療者と患者の協同作品なのだろうと思う。クラインの臨床観察では患者が原始的な攻撃性を展開させるプレイを多数行ったのを分析して、攻撃性の理論を作り上げたのかもしれないが、それはどこかクラインの攻撃性の投影を受けたものだったとも考えられる。

 また、クラインの理論(投影同一化や早期幼児期論)から対象関係論という視点が生まれたのだと思うが、少なくともこの時期の論文にはそういう兆候はあまり見られなかった。もちろん、乳児が親からの取り入れや攻撃との関連の中で発達していくという視点は対象関係論的であるが、クラインの治療の中では中立性を堅く維持し、一者心理学的に患者をまさしく分析していくその臨床スタイルは対象関係論の欠片もなかった。転移という関係性にまつわる用語も使っているが、やはりそれは患者は持ち出してくるものであり、治療者の逆転移という発想は見られなかった。この辺り、後期の論文ではどうなってくるのか楽しみなところである。

 それと、訳者あとがきでクラインの半生も書かれていた。僕はクラインの生き様を見る度に、いつも涙が出そうになってしまう。あれほどの喪失体験を繰り返し、大変傷ついてきたことだろうと想像する。クラインが重いうつであったことも分かるような気がする。そういう時に精神分析に救いを求めたのであろう。さらに、この喪失といった抑うつ不安を抱えることの大変さはもしかしたらクラインが一番分かっていたのかもしれない。他者からの批判に対してクラインは迫害されたという体験をし、過剰にやり返すということもしていたようである。まさに抑うつ不安に耐えれず、妄想分裂ポジションに退行していたとも言えるのかも知れない。クラインの償いの作業・喪の作業が精神分析理論・クライン理論の構築に貢献したと言えるのかも知れない。


<目次>
 1 子どもの心的発達(1921)
 2 思春期における制止と心理的問題(1922)
 3 子どものリビドー発達における学校の役割(1923)
 4 早期分析(1923)
 5 チック心因論に関する寄与(1925)
 6 早期分析の心理学的原則(1926)
 7 児童分析に関するシンポジウム(1927)
 8 正常な子どもにおける犯罪傾向(1927)
 9 エディプス葛藤の早期段階(1928)
 10 子どもの遊びにおける人格化(1929)
 11 芸術作品および創造的衝動に表われた幼児期不安状況(1929)
 12 自我の発達における象徴形成の重要性(1930)
 13 精神病の精神療法(1930)
 14 知性の制止についての理論的寄与(1931)





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