発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)
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D.W.ウィニコット(著) 「逆転移のなかの憎しみ」 1947年
北山修(監訳)“小児医学から精神分析へ-ウィニコット臨床論文集-” 岩崎学術出版社 pp228-240


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 心理療法をしていると患者はしばしば治療者に対して気を使い、遠慮をし、言いたいことを抑えます。言うなれば治療者に対する恐怖があるのです。僕自身が教育分析(個人分析)を受けていた時にも確かにそういう気持ちはありました。

 しかし、治療者は患者のすべてを受け入れる「べき」だ、優しく接する「べき」だ、そして常にそれを実行できている、と思っている節があります。

 だから、患者が治療者に対して気を使ったり、恐怖を感じるのは、治療者が優しくすることに失敗しているか、それとも患者が不合理な物の考え方や歪みをもっているからだと理解してきました。その為、治療者は優しくしようと努力をしたり、病院や大学、相談センターという権威に対する従順性や恐怖という文脈から患者を理解したり、転移に表れた無意識的ファンタジーとして取り扱ったりしてきました。

 そういう中で、ウィニコットの1947年の論文「逆転移のなかの憎しみ」を読みました。

 ここでは重い病理を持つ患者に出会うと治療者は憎しみを感じるものであり、それは母親が子どもに対して持つ憎しみと同じものであるということを議論しています。そして、憎しみを持つことがダメなことではなく、憎しみを持つことは必然のことであり、それこそが深い治療を体験している証拠であるというようなことを言っていました。そして、治療者が報復することなく、患者を憎み続けることができることが治療の成否を左右するとまで言っています。

 これはすごいことだと思います。

 一般的に治療者は、優しく、有能で、懐が深く、何でも受け入れる万能的なイメージを持たれる事が多いし、事実、患者はそれを求めて来ているところもあります。しかし、実際には治療者は様々なネガティブな感情を感じ、否定的な気持ちを患者に向けることもあります

 最初に患者が治療者に恐怖を抱くと書きましたが、もしかしたらそれは治療者のそういう憎しみをどこかで感じているからではないかとも思います。ウィニコットは重い病理の患者は同一化する能力がないから、治療者の憎しみを知覚することができないと言っていますが、上記の治療者に対して恐怖を持つ患者は神経症レベルの患者なので、もしかしたらどこかで治療者の憎しみを知覚しているのかもしれません。

 そして、これらの感情をワークスルーすることを考えるよりも、憎しみを憎しみとして体験し続けることにこそ治療意義があるのかもしれません。広い意味ではこれもワークスルーと言えるのかも知れませんが。

 なかなか考えさせられる論文だったと思います。



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 これまでの精神分析の研究は臨床エッセイや事例研究がほとんどであった。しかし、最近では乳幼児の観察研究や統計を使った調査研究などもチラホラとみられるようになってきた。そういう変遷の中で本書は分析家自体を調査対象として、65人の分析家にインタビューを行っており、その結果をまとめている。

 このインタビューの中で、それぞれの分析家が思い思いに精神分析の理論や技法、臨床について語っているのだが、テキストには書かれていない、現役の生の声や視点が多数盛り込まれており、大変密度の濃い内容となっている。同じ学派に位置付けられていても、まったく違う意見が書かれていたり、学派が違っていても似たような意見が書かれていたりとあり、そういうところを見ていくこともまた興味深いものであった。

 本書では様々な学派の分析家の意見が載せられているのだが、僕自身の考えと比べて読んでいたところがあった。その中で思ったのは、クライン学派や独立学派の意見に共感を覚えることが多かった。反対に自己心理学派の意見にはあまりピンとこなかった。しかし、学派というのは確かに一つのまとまりをなしているのだが、精神分析は究極的には個々人の実践にすべてが集約されていくのだし、65人いれば65通りの理論と実践があるのだろうと思う。そして、個々人が何を創造していくのかというところに精神分析の本質があると僕は考えている。

 本書はなかなかボリュームがあるので、読むのにはエネルギーが相当いると思うが、是非一度は手に取って見られることをお勧めしたい。



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 クライン著作集を読むのに疲れて逃避するように読んだ本。その対比があるからか口語文でもあり、大変読みやすい反面、大変含蓄に溢れ、読めば読むほど味わい深いものである。本書は大学学部の講義録であり、上巻は前期分、フロイトが生まれて死ぬまでを網羅している。ちなみにまだ現在は出版されていないが、下巻ではフロイト以後のことが書かれているようである。また、最初の方で著者は「日本で最高水準を目指す」といったことを書いており、最後まで読むとその意味が大変良く分かることと思う。

 今までの精神分析の入門書やテキストは精神分析の様々な理論を並列的に並べて説明しているものが多いようである。しかし、本書では始めに精神分析は学問というよりも実践であるというコンセプトを明確に打ち出し、臨床の生のリアリティをそのまま伝えようと著者は常に意識していることがとてもヒシヒシと伝わってくる。しかし、精神分析は体験しなければ分からないという側面もあり、それを講義の中でどのように伝えたら良いのかに四苦八苦している著者の姿もまた見えるようである。このコンセプトが十分に達成できているのかは定かではないが、少なくとも僕には著者の臨床実践の片鱗をうかがうことができ、自分の実践と照らし合わせて再体験できたような感じもある。

 さらに、精神分析は文化的・社会的・歴史的な文脈から生まれ、個々人のパーソンナルなものが密接に絡み合っているのかが大変重要であるという視点から、フロイトの出生や生き方、パーソナリティを描いていくことにも本書は力を注いでいるようである。そのことによって、一つ一つの精神分析の理論や技法が単に知識として理解されるのではなく、体験として理解されるようになっている。著者は「歴史的な流れが重要」ということも書いており、その通りにフロイトの理論的変遷を時間順に追いかけていることもまた精神分析の理解を深みのあるものにするのに貢献しているように思う。

 精神分析の創始者はフロイトであるが、フロイトの理論を吸収しつつも、それをドグマとして鵜呑みにするのではなく、乗り越えてき、自分の精神分析を見つけていこうとする著者の姿はまさに精神分析家のありようがリアルに浮かび上がってきているように感じる。中でも「フロイトの後期はダメな臨床家であった」という文章もあり、思わずワクワクしながら読んでしまった。

 全体的に今までにないテキストの在り方をしており、知識ではない体験として、もしくは実践としての精神分析の片鱗に触れられる大変良い本であると思う。その為、この講義を実際に聞いていた上智大学の学部制を羨ましく思ってしまうのは仕方ないことだと思う。ただ、本書に書かれている精神分析の体験的な知というものを臨床実践なくしてどこまで理解できるのだろうか?という一抹の不安もまた同時にあるし、出てくる用語が少々難しい上、英語読みをしているところもあるので、これだけのレベルについていくことは大変なことであろうと思われる。また、関係ないことであるが、この講義の試験はどういう問題になっているのだろうか?それを僕が受けた場合、どれぐらいの得点になるのだろうか?など想像してしまうところもあった(笑)



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 トラウマという言葉は最近では市民権を得て、日常的に使われるまでになってきた。また日々の臨床の中でも患者さんが自らトラウマを受けた、トラウマを持っている、と話すことも稀ではない。しかし、トラウマとは一体何なのか?ということはまだ学問的にも臨床的にも曖昧で、定式化したものはほとんどない状態である。本書はそのようなトラウマを社会的な文脈の中でどのように位置付けられ、機能しているのかということを論じている。

 トラウマはどのような状況でも起こりうるが、本書では主に犯罪・暴力・事件といった文脈の中でのものを扱っている。特に女性への暴力という点が大きなポイントになっており、その箇所については危機迫る迫力を感じるぐらいである。被害女性のトラウマについてどのように理解し、扱うのかはとても大きな問題で、「気持ちの持ちよう」とか「あなたも悪い」といった対応が昔はよくなされており、それが如何に二次被害を引き起こすのかは論をまたない。しかし、反対に単に優しく接するとか、理解したつもりの顔で接することをも二次被害になるという現象を浮き彫りにさせており、単純にこうすれば良いといった話ではないことが強調されている。

 このような状況の中で、どうすれば良いのかといった答えが一つ明確にあるわけではないことは当然である。安易な答えを求めることは無意味だが、しかし、治療者としてどのようにしても被害者を傷つけてしまうという無力感は強く、何もできず、身動きが取れないという絶望感に、本書を読んでいると陥ってしまう。逆転移から理解すると、この無力感や身動きのとれなさはまさに被害者の体験そのものであると言えるのだが、本書のインパクトある口調を前にすると、その逆転移理解すらも薄っぺらく、情緒を排除するための知性化にしか思えなくなってしまう。

 また、この状況で治療者として被害者に関わることが、一見すると治療だが、実はそれが暴力的に作用するということもまたあるのかもしれない。というのも、どういう治療を行うのかにもよるが、基本的に治療は侵襲的なものである。単に癒しがあるとか、すべて丸く収まるものであると楽観的に言うことはできない。このような中で治療すること自体がトラウマの再演になる可能性は大いにある。被害者も意識的に傷つくために行動しようということはないだろうが、無意識的にトラウマを反復したり、罰を進んで受けようとすることがある。これらのことを見ると、フロイトの死の本能を連想してしまうこともある。しかし、反対に反復することは、それを乗り越えようとする動機であるとも言うことができ、健康さのあらわれだと理解することもできるかもしれない。このような中で、反復することはダメとか、侵襲的にしないようにと考えるのではなく、そのような状況が治療の中で起こっているのはどういうことなのかという意味について考え続ける必要があるかもしれない。さらに国同士の紛争の話が本書の最初にあり、そこではどちらが加害者でどちらが被害者であるのかの境界はないに等しいという主旨のことが書かれていた。それからすると、トラウマ治療をすること自体が、単に救済する・癒す・治す・助けるといった単純なものとして理解することができず、治療者自身が加害者になりうることもあるだろう。もしくは、そこまでいかなくても治療者の加害者性ということについて十分に理解しておく必要はあるだろう。

 話は変わるが、トラウマによってPTSDになる要因は何なのか?という論争はまだ決着はついていないが、ある程度の方向性が最近は出されている。昔は外傷的な体験が一番重要であるとされていたが、最近では個人的な素質が重要であるという研究結果が多く出されているようである。その為、脆弱性を焦点にしたアプローチも考案されているようである。それからすると、本書はどちらかというとトラウマに焦点をあてているので、少々最近の研究からすると違う方向性となってしまう。しかし、それでも、本書のインパクトある語り口調や論理的展開をみると、簡単にトラウマは関係ないと言うことは難しい。

 本書を読んでいるとトラウマ治療が単純に医療の中で語られることが如何に危険で、文化や社会的な文脈の中で捉えなおすことが大変重要であるということを教えてくれているように思う。


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