発展途上臨床さいころじすとの航跡blog版 (精神分析 臨床心理 心理療法)

臨床心理士ピュアリーの心理臨床・精神分析に関する日記。

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第11回「こころの健康電話相談」開催のお知らせ

日本臨床心理士会が毎年開催している全国一斉無料電話相談が本日、1月31日(日)9時〜17時に開催されます。

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居住地の都道府県の電話番号にかけたら良いようです。多分、他府県でもOKかとは思いますが。

北海道 011−891−2800  滋賀 077−531−0966・0967
青森 017−774−5323  京都 075−213−5050
岩手 019−605−8003  大阪 06−6858—9331
宮城 022−299−5018  兵庫 078−362−6670・6671
秋田 018−834−3141  和歌山 0737−88−9990
山形 023−628−4466  鳥取 0858−22−1901
福島 0243−22−5511  島根 0852−28−1055
茨城 029−858−4081・4082  広島 082−849−5570
栃木 028−622−5556  山口 0836−21−9990
群馬 027−352−0101  徳島 088−687−6623
神奈川 044−200−9586  香川 087−833−9990
東京 03−3830−1287  愛媛 089−957−9311・9312
新潟 025−280−1680・1690  高知 088−872−6190
長野 026−283−6688  福岡 092−713−9911
山梨 055−232−9990  熊本 096−272−4999
福井 0778−27−2770  宮崎 0985−84−3400
静岡 054−280−5017  鹿児島 0995−65−2730・2763
愛知 052−681−5012  沖縄 098−895−9990
三重 059−221−7830  日本(本部) 03−3813−9990
メラニー・クライン(著) 「乳幼児の行動観察について」 1952年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp117-156

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 本論文はクラインが構築した乳幼児の心のありようを示す理論が実際の観察とどう整合性があるのかを検証しようとしたものである。クライン派は「純心理学的」と評されるほど、人間の内面世界を扱い、その中で完結させていこうとしており、そこがしばしば他の学派から批判されてところでもある。しかし、実際にクラインの論文を読んでいると、そこまで純心理学的になることはなく、現実の母親との関係や観察にその理論的な根拠を置いているところもある。それは1936年の「離乳」という論文などにも端的に表れている。このことからクライン自身はそこまで内的空想だけにこだわっていたということではないのかもしれない。

 そしてこの理論と実際の観察との整合性についてであるが、クライン派から離れてしますが、コフート派のD.スターンは臨床乳児と被観察乳児とを区別し、実証的に乳児の心のありようを理論化していった。その中でスターンは「新生自己感」「中核自己感」「主観自己感」「言語自己感」という発達段階を構築した。クラインはスターンほど実証的な方向にはこれ以後いかなかったが、その実証の流れはスターンに引き継がれたと言えるのかもしれない。(乳児の対人世界 理論編乳児の対人世界 臨床編

 また、現在のイギリスにおける精神分析家のトレーニングコースでは「乳幼児観察」が義務付けられている。これは、乳幼児が生まれてから2歳になるまで、毎週同じ時間にその家庭に出向き、乳幼児を観察し続けるというものである。そしてそれは単なる観察だけではなく、観察者がどのような情緒体験をしているのか、どのような思考をしているのかを含めて記録していくのである。すなわち、乳幼児との関係性を極めて長い間、そして密接に体験することにより、それが精神分析家としての能力が向上するのである。乳幼児の心のありようは、精神病の心のありようと同じであるという理論的背景がそのようなトレーニングに行きついたのであろう。この乳幼児観察を組み込んだエスター・ビックはもしかしたらクラインのこの論文に刺激を受け、それをトレーニングの中で入れたのかもしれない。


新年あけましておめでとうございます。2009年が終り、2010年になりました。

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 昨年は臨床心理職の国家資格化の話が降って沸いたように出てきました。一時は停滞していたものがここにきて急展開したことが一番のニュースだったかもしれません。

 プライベートでは学会発表・研究会発表は例年通りに3〜4件ほどさせてもらい、ノルマは達成しましたが、残念ながら学術論文の方は紀要に投稿するぐらいで終わってしまいました。来年こそは査読を通過したいものです。と、これは毎年言っているけど未だに・・・

 仕事の方はケースはたくさん増え、精神分析のケースもボチボチと続いています。ただ、腕の方が上がっているとは言いがたい状態なので、どうしたものかと思案中です。

 ブログについては、昨年からクライン著作集をゆっくりと読み始めており、その関連が多くなっています。内容もマニアックなので、興味がそそられない方も多いかと思いますが、ブログなんて個人的な趣味みたいなものです。これで集客しようなんてこともないので、まーいいでしょう。

 今年もそんなに頻繁に更新もしないし、内容もしょーむないものだと思いますが、気が向いたときにはブログを読みに来てください。今年もよろしくお願いいたします。


日本臨床心理士資格認定協会からの提言について。

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 先日、認定協会(日本臨床心理士資格認定協会)から郵送便が届きました。中身は簡潔に言って、現在の臨床心理職の国家資格化には反対するという声明文です。理由としては、現在進められている国家資格は臨床心理学を基礎学問とする資格ではなく、一般的な心理学を基礎学問とする資格になっている、というものです。

 臨床心理側(臨床心理職国家資格推進連絡協議会)と医療心理側(医療心理師国家資格制度推進協議会)との間で話し合いが難航していたところに、日心連(日本心理学諸学会連合)が間を取り持つという形で国家資格化がずいぶんと進んだところはあります。

 反面、日心連が入ったおかげで臨床心理学固有の資格というよりは、一般的な心理学の割合が増えていっているというところは確かにあると思います。多分、認定協会としては、臨床心理学という独自性が薄れてしまうことを懸念しているのではないかと推測します。

 しかし、今回の資格には以下の4つのコンセプトがあります。

(A)名称は「心理師」や「臨床心理師」といった候補はあるが、未定。
(B)分野にとらわれない汎用資格。
(C)医療の分野においては医師の指示の元での業務。
(D)大学+大学院、もしくは大学+実務経験で受験資格。



 その中身をしても、それほど基礎心理学に偏り、臨床心理学の独自性が失われているような内容にはなってないようにも思えます。そして、この国家資格が生かされる業務として、心理治療・心理査定・地域援助といったことが主になってくることを考えると認定協会の考えが妥当かどうかは疑問です。

 ただ、確かに学部卒+実務経験でも受験資格を取れるのは、現在の「臨床心理士」に比べると質の低下は免れないとは思うのですが。

 さらに、「教育発達心理資格連絡協議会」なるものが発足し、臨床心理職の国家資格化の中に入れるような要望も出してきています。

 一時は順調に進んでいると思われた臨床心理職の国家資格ですが、今後、また暗礁に乗り上げる可能性も出てきましたが、何とか調整して無事に国会上程に持っていきたいものです。

 しかし、調整といっても単に妥協に妥協を重ねて、民主党:鳩山氏のように八方美人になって結局何も決断できずズルズルと先延ばしにするのではなく、何が国民のニーズなのか、どういう資格にすることが国民の利益になるのか、そして、いわゆるカウンセラーの質をどう維持・発展していくのか、といったことを主眼にしていきたいものです。


メラニー・クライン(著) 「幼児の情緒生活についての二、三の理論的結論」 1952年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp77-116

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 クラインはフロイトに比べて早期の乳幼児の心の在り方や発達についてきめ細かく理論化しているところに魅力と臨床的な意義がある。生後2〜3ヶ月までの妄想分裂ポジションと、生後半年ぐらいの抑うつポジションの、それぞれの移り行きや変遷について本論文では細かく説明されている。

 乳幼児の心の在り方は、大人の重症な病理と大変似通った性質を持っており、その為、乳幼児の心を理解することにより、重症ケースの理解と治療に役立てることができるのである。フロイトの時代にはヒステリーや強迫神経症といった神経症水準のケースが多かったが、時代が下るにつれて、社会的な要請もあっただろうが、境界水準や精神病水準のケースが多くなってきたという背景もあるのかもしれない。クラインの早期乳幼児の理論により神経症よりも重たい水準の患者に対する精神分析の道が開かれたといっても過言ではないだろう。

 さらにこのクラインの発達理論を元に、病理的組織化の研究によりさらに対応が難しい患者への理解と治療の道が開け、自閉・接触ポジションの研究により発達障害の精神分析治療にも道が開けて行ったのである。


カウンセリングにおいて空想と現実をどう扱うか。

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 相談業務はカウンセラーだけではなく、ケースワーカーもするし、弁護士もするし、医者もするし、看護師もするし、たいていの援助職は行っていると思います。しかし、同じ相談業務だけど、カウンセラーはそれ以外の援助職とはちょっと違った視点で相談を受けるところにその専門性があります。

 そのちょっと違った視点とは、内的空想を扱うということです。たとえクライエントが、現実的な話をしていても、それは内的空想が投影されたものとして見るのです。例えば、「上司から叱られて落ち込んだ」という話があったとしても、それをカウンセラーとの関係に引き寄せて、カウンセラーから叱られているように感じているのではないかと理解することもあります。もしくは、これまでの親との厳しい養育環境の中で常に虐げられてきた恐怖がそこににじみ出ているのではないかと理解するかもしれません(もちろんこの視点を持たないカウンセラーもいるでしょうが)。

 逆にカウンセラーの中には内的空想ばかりに目を向ける人もいます。ユング好きやスピリチュアル好きなんかが典型だと思いますが、箱庭療法をしたり、夢分析をしたりして、何でも内的空想の話や象徴としてしか理解しない人もいます。現実問題を無視するというか。内的空想の話をしていても、そこに何らかの現実の問題から影響され、刺激されていることを念頭に置いたほうが良いでしょう。

 そう思うと、カウンセラーの専門性とは、現実の話を聞いていてもそこに内的空想に思いをめぐらしながら話を聞き、内的空想の話をしていても、そこに現実問題を意識して話を聞くことでしょう。すなわち、現実問題と内的空想の間にいることがカウンセラーの他には類を見ない専門性と言えるのかも知れません。

 しかし、このようなことを書いているけど、ウィニコットが既に「遊びの空間」「移行対象」ということでこれらのことを論じていたのだなと思うと、そんなに目新しいことを書いているわけじゃないようで、ガッカリです・・・


メラニー・クライン(著) 「自我発達とエスにおける相互的影響」 1952年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp73-76

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 解題を見ると、このタイトルによるシンポジウムに寄稿された論文であり、これまでのクラインの考えを簡単にまとめたもののようである。その為、特に目新しい考えが付け加えられたり、展開していったりということはない。

 クラインの理論の重要な位置にあたる超自我は、フロイトが考えるよりも早期に誕生し、その際には超自我が迫害的に作用するとしている。これは境界例の理解にとっては大変有用である。境界例の患者はさまざまな問題行動を起こしたり、他者に対する過剰な攻撃をすることもあるが、それは超自我の力が弱く、衝動の抑制が効かないということではない。逆に超自我があまりにも強く、その迫害的な罪悪感に耐え切れずに行動してしまうということは臨床的にはよく見られることである。この時期にはまだ境界例という概念が市民権を得てないので、クラインは直接的にはそのことについては言及はしていないが。

 また、クラインは本論文の最後に「無意識を深さにおいても広さにおいても探求することによってのみ、全体の人格を分析できるというのが、われわれの認識である」と書いている。あまりにもサラっと書いているが、これをしていくためにはどれほどのエネルギーと負担と時間がかかるのか想像するだけでも大変である。クラインはそういうことを長年続けてきたのであろうし、それは大変スゴイことであると思われる。


メラニー・クライン(著) 「転移の起源」 1952年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp61-72

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 精神分析が他の心理療法や心理治療と一線を画する一番のオリジナリティと言えば、この転移についてである。他の心理療法でも折衷的な人は転移という言葉を使ったりするが、これを直接扱う技法はほとんど持ち合わせていないであろう。転移を扱うことがイコール精神分析というわけではないが、精神分析技法において転移は大変重要な位置を占めていると言える。

 ただ、転移は過去の重要な人物との反復である、という誤解をされることが多い。フロイトは1912年の「転移の力動性について」で、転移を単なる過去の反復であるとは言わず、過去の人物との間で満たされなかった気持ちや感情が現在の人物との関係の中に持ち込まれるものである、としている。ここが微妙な違いでありつつ、重要な違いでもある。

 そしてクラインはこの論文においてクライン流の転移の理解や扱いについて詳細に述べている。すなわち、人生の最早期の対象関係との関連を転移を絡めて論じているのである。フロイトは人生の最早期には対象関係はなく、自体愛と自己愛の世界に没入しており、対象関係はないとしている。その為、転移は現れないと考えているようである。このことから、プレエディパルの時期に固着を持つ精神病については転移は起こらないので精神分析は不可能であると言っている。しかし、クラインは自体愛・自己愛に先んじて対象関係は存在しているので、プレエディパルの時期に固着をもっている患者も転移は起こるとしている。すなわち精神病の精神分析も可能であると言っている。ここがクラインとフロイトの大きな違いである。クラインはそういう意味では精神分析の適用を大幅に広げたと言えるであろう。

 また、現代的には転移は逆転移と不可分のものであり、転移解釈の際には逆転移の吟味が重要であるとされている。しかし、クラインは本論文でもそうであるが逆転移についてはほとんど触れていない。ハイマンが1950年に「逆転移について」という論文を書いたが、クラインはそれに対して、逆転移は治療の妨げになるので、安易な活用は危険であるといったことを主張し、ハイマンとの関係に亀裂が入ったようである。この点に関しては色々な意見があるだろうが、確かにクラインのいうように安易に逆転移を治療に生かすことの是非は検討していかねばならないだろう。十分な訓練分析と治療経験がなければ、逆転移は単なる治療者の個人的病理の表出にすぎなくなってしまうのである。しかし、逆に言えば、十分な訓練分析と治療経験をすることで逆転移を活用していくことは可能である。治療に生かすというレベルにはいかなくても、多かれ少なかれ起こっている逆転移を認識していくことは大切であると思う。逆転移を無視するという逆転移が起こっていては意味がないのである。


メラニー・クライン(著) 「精神分析の終結のための基準について」 1950年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp55-60

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 何事にも終わりというものはあり、それは精神分析と言えども例外ではない。クラインはこれまでの経験からクラインなりの終結の基準について本論文で述べている。簡単に要約すると、迫害不安と抑うつ不安が緩和され、自我の安定性と現実感が増大し、幻想生活と情緒を自由に体験する能力を得て、さらには喪の仕事が果たされること、を挙げている。本論文は6ページほどの短いもので、特に込み入った議論をすることもなく、クラインの考えを提示しているだけといった感じである。

 精神分析の終結というと真っ先に思い浮かべるのがフロイトの1939年「終わりある分析と終わりなき分析」である。フロイトは初期には精神分析が万能の方法であるといった多少マニックな考えを持っていた。しかし、さまざまな思想の変遷を経て、徐々に自分自身の死が近づくにつれ、精神分析の限界を考えるようになったようである。その中で生み出されたのがこの論文である。ここでは精神分析の限界などについて書かれており、多少抑うつ的なトーンに彩られている。精神分析は本当に役に立つのか?といった議論まで延々とされている。

 このフロイトの精神分析の終結についての延々と議論をし、自問自答し、限界があるのではないかといった結論を導き出しているところと、このクラインの「精神分析の終結のための基準について」に書かれている楽観論とを比較すると大きな開きが感じられる。誤解を恐れずに言えば、クラインの論文は軽い感じなのである

 しかし、僕もそんな偉そうなことをいえる立場ではなく、実際的に精神分析をきちんと終結に持っていったケースなどは本当に数少ない。ほとんどが中断したり、そこそこのところで終了となったりすることが多い。もちろん、だからといってそれらが全然ダメと卑下することもしないが、満足しているともまた言えない。終結は単なる時間の区切りであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのかもしれない。中断・終了・終結は単に終わり方を分類しただけであり、その本質はもっと別のところにあるようにも思う。もっと言えば、終わり方はその人のありようの一部であり、それこそが分析の対象にもなるのかもしれない。


メラニー・クライン(著) 「不安と罪悪感の理論について」 1948年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp33-54

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 クラインがこれまでの構築した攻撃性―不安―罪悪感といった一連の理解を要約し、まとめた論文。その為、ある程度分かりやすく、整理されて書かれている。反面、特に新しい概念が追加されたり、理論が進展したりということはあまりないよう。

 クラインはフロイトの死の本能を取り上げ、そこから派生する不安などを整理している。しかし、フロイトのいう死の本能とクラインがいうそれとは多少の違いがあるようである。すなわちフロイトのいう死の本能は生命体が消滅の方向にヒタヒタと静かに人知れず突き進んでいく不気味なものを想定していたのに対し、クラインは死の本能を攻撃的で活動的でサディスティックで、大変動的なものとしているようである。まさに赤ん坊がワー!と泣き喚くような大変激しいものがイメージされる。

 そしてクラインは、それらの死の本能が他者に投影される時、自らの死の本能が自らを攻撃してくる時、迫害的な不安を感じ、死の本能は自分のものであると認識し、それが他者を破壊してしまっているのではないかというときに抑うつ不安を感じるとしている。すなわち、迫害的不安から抑うつ的不安に変わる時、罪悪感が現れるとしている。これはフロイトがエディプスコンプレックスの結果として罪悪感が形成されるとしたこととはかなりの相違があり、フロイトが考えるよりも早期に罪悪感が形成されるとクラインは見ているようである。