本書はフロイトの主要論文が網羅されており、非常に読みやすく、含蓄深いものばかりですが、これだけを読んでフロイトを理解できたとは思わない方が良いと思います。というのも、フロイトの言ったことを著者たちなりの「翻訳」をしているところもあります。またフロイトを読むことは各自の体験とのすり合わせの中で生きてくるものであり、単に知識と技術を習得するためのものではないからです。フロイト論文をロールシャッハの図版に見立て、そこから連想を広げ、自分なりのフロイト理解をしていくことが極めて臨床的な営みへと通じていくものと思われます。ですから、本書を入門的に読むとしても、そこで終わらず、できればフロイトの論文を実際に読むことをお勧めしたいと僕は思います。
そして本書は1巻であり、フロイトの論文の初期〜中期ごろものが収められています。そして、中期〜後期のものを収めた2巻もすでに発売されています。
西園昌久(監修)「現代フロイト読本2」みすず書房 2008年 3570円
こちらのほうも是非読んでみたいと思っています。
しかし、僕がフロイトの論文を実際に読み始めたのは約2年ほど前です。ちょうど、研究会でフロイトの論文を購読していくというものがあって、それにふと参加したのが始まりです。最初は課題として出されるのを苦痛に歪みながら読んでいましたが、それでも継続していくうちに面白くなっていき、ついには課題以外のフロイトの論文も読むようになりました。今まで読んだものはこちらの記事で赤文字になっているものです。後は「日常生活の精神病理」「機知」「科学的心理学草稿」が残っているぐらいです。いずれも長い論文なのでゆっくりと読んでいこうと思っています。
そういえば、2年前にフロイトの論文を読み始めた頃は、一つ一つがとても長く、回りくどく、難解でした。これは初学者には難しいだろうと思ってて、いつかフロイトの主要論文を集めて、それぞれの論文の要約や解説を書いて、初学者の人に分かりやすく紹介した本を出したいと思ってました。それを実際にのんさんに相談したりもしていたけど、それが僕の知らないところで僕の企画したような形で本書が出されてしまい、遅れを取ってしまったなと思いました(笑)。精神分析家の先生にこういうのを出されたらもう出せないですね(^^ゞ いや、あと20年ぐらいたって、本書が古くなり、誰からも忘れてしまった頃に、その時期のフロイト理解ということで、僕なりの本なんかを出せたらなって密かに思ったりしています(笑)
現代フロイト読本1 収録論文一覧
序文 西園昌久
フロイトの著作について 藤山直樹
『ヒステリー研究』を読む 福本修
『科学的心理学草稿』――忘れ去られ数奇な運命をたどった難解で異色の論文 衣笠隆幸
『夢判断』を読む 福本修
『日常生活の精神病理学』――発掘されるこころの真実 鈴木智美
『あるヒステリー患者の分析の断片』――「症例ドラ」 岩崎徹也
もしも、もっとよく眼をこらして見るならば――『性欲論三篇』を読む 乾吉佑
『機知』――冗談の精神分析 *コラム 北山修
『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』――空想・妄想から愛の自覚へ 大橋一惠
『ある五歳男児の恐怖症分析』――「ハンス症例」 小倉清
『強迫神経症の一症例に関する考察』――「ねずみ男の症例」 堤啓
『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の一記憶』――ダ・ヴィンチの母親コンプレックス *コラム 前田重治
『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析学的考察』――「シュレーバー症例」 牛島定信
『精神現象の二原則に関する定式』の現代的意義 岡野憲一郎
発見とたじろぎ――「技法に関する諸論文」に聴くフロイトの肉声 藤山直樹
『トーテムとタブー』――フロイトの文化論を読む 門田一法
『ナルシシズム入門』――自我と自己の病理への道を拓く 狩野力八郎
『想起、反復、徹底操作』を読む――すべてを知り、一人で闘ったフロイト 福井敏
『本能とその運命』の運命について 相田信男
“ひとを読む”フロイトに出会う――『精神分析的研究から見た二、三の性格類型』 松木邦裕
私有化された「フロイトを読む」 北山修
「カウンセリングは治すものではない」
「カウンセリングは成長に寄り添うものだ」
「カウンセリングは権威とは相容れない」
というものがあり、ある部分では納得できるところもあるが、そこまでヒステリカルにならなくても良いのではないかとも思ったりもする。
病院の中で白衣を着ることを頑なに拒否したり、「カルテ」「患者」「治療」といった医学用語を使う人を軽蔑したりまでする人に出会ったりすることもある。
カウンセリングという言葉は職業指導運動・教育測定運動・精神衛生運動の3つから出てきたが、大きく社会的に認知されたのはロジャースが来談者中心療法の文脈でこの用語を使い出してからと思われる。
ロジャースの当初の目的は、医療との切り離しや、医学とは違うアイデンティティを持っているという信念や、独自性を打ち出すために用いていていた。いわば「独立戦争の武器」としてであった。
しかし、それが日本の中に入ってきて、独自性が徐々に認識されだし、今ではある程度確立された学問体系としてできあがってきたところもあるが、医療に再び取り込まれるのではないかといった恐怖から「カウンセリングは医療ではない」と声高に叫ばざるをえない気持ちになっていることも考えられる。
さらに、ある程度の独自性が出てきたとともに、そこに自己愛的なプライドも付け加わったきたようにも思われる。それはカウンセリング以外のものに対する脱価値化するような発言であったり、「カウンセリングこそすべて」といった万能的な空想を抱いたりしているところもある。それが医療に向けられた軽蔑となり、「カウンセリングを医療に含めないでもらいたい」といった言葉になっていることも考えられる。
そのナルシスティックな攻撃性は医療を臭わすカウンセラー全てに向けられ、カウンセラーでありつつも「患者」「治療」といった言葉を使う人をヒステリックに攻撃したり、軽蔑したり、全否定したりといった行動を取る。それが行き過ぎて、「心理検査をすることはレッテル貼りだ」と言い、精神分析や認知行動療法を「医療という権威による矯正」となぜか捉えて、非難するということも、信じられないかもしれないが、未だに存在するのである。これらは学生相談・学校現場といった教育系の人に多いように感じる。
しかし、本当にカウンセリング原理主義者がいうように、医療というのはそこまで価値がなく、権威による矯正しかせず、成長や寄り添うことを否定しているのだろうか?僕はそんなことはないと考えている。
僕は臨床経験のほとんどを医療の中で過ごしているということも関係あるかもしれないが、一方通行のそれこそインフォームドコンセントを無視した医療も確かに一部あるが、もっと全人的・包括的な方向性に動いており、対等な関係の中で医療を行っていくようになってきているように感じる。そして単なる治すといったこと以上に、自己治癒力や成長といった概念を積極的に取り込み、そこに寄り添い、見守るといった姿勢もまたうかがえる。
カウンセリング原理主義者がいうように医療というのはそこまで非人間的なものではないと思う。
それはともかくこういう達人が実際にどのようなセラピーをしていたのかを見るのは、なかなか貴重ですね。実際の受け答えとか、言葉使いが見えるので。グロリアのビデオでもロジャースがカウンセリングをしているけど、1回限りの実験的な意味が大きいので、このMissMunのはまた一味違うように思います。
さて、このビデオを見て思ったことは色々とあります。というか、どうしても精神分析的な視点から見てしまうのは、もう癖みたいになっているので、それはご了承を(^^ゞ
最初の方でMissMunが「限界(リミット」ということを語っています。守りという意味合いも含まれているみたいですが、今までそういう守りがなかったということだったのだろうと思います。また、それはこの面接の中でロジャースは守ってくれるか?ということをMissMunは不安に思っていたのかなと思います。というのも、撮影をされること自体が守りがなくなることだと思うし、それについてMissMunは色々な空想をしているのだろうと僕は理解しました。
そして、撮影されている影響がセラピーに出ていることは事実だろうと思います。その点をロジャースは扱ってなかったです。もし撮影が了解されていたのなら、僕ならそのこと自体を扱うかなと思いました。
というのも、MissMunは父の期待に答えられなかったということを言っていましたので、撮影を引き受けることはロジャースの期待を引き受けることだったとつなげて考えることが可能ですので。
しかし、その後、ロジャースが何かの言葉を口にした後に、雰囲気が変わりました。MissMunの話の内容も変わり、「男の人の方が落ち着く」という話になりました。これもロジャースが男であることを指しているのだろうし、そこで気持ちを理解してくれたことについて言及しているのだろうと。さらに父が居なかったらめちゃくちゃになっていたということも、ロジャースがいなければめちゃめちゃになっていたということをMissMunは語っていたのだろうと思います。
途中でMissMunからhere and nowについて話した部分がありました。「それは今先生にしてもらっていることです」というような感じで。それでも、ロジャースは過去のことばかりに焦点を当てていたように思います。父がどうだったとか、母がどうだったとか。転移/逆転移をあまり扱わない、古典的な精神分析みたいでした。この点についてもMissMunは現在を、ロジャースは過去を見ていて、ちょっとズレているのかなとも思ったりしました。
面接が終わった後にロジャースの感想のシーンがありました。そこでcounter transferenceという言葉を使っていましたが、字幕スーパーでは「逆移転」と約されていました。思わず「逆転移やん!」と突っ込んでしまいました(笑)
それはともかく、ロジャースはMissMunに対して陽性の逆転移を抱いたということを言っていました。それが良いとも悪いとも僕は思いませんが、やはりどうしてそういう逆転移を抱いたのか?というところが気になるところです。というのも、MissMunは親に対する不満や怒りがあるようで、その転移をロジャースに向け、良い父親であってもらいたいという思いを抱いていたと思います。そのMissMunの理想化された転移がロジャースに伝わり、あたかも理想の親子であるかのような関係性になったのかなと。
ロジャースのやり方はそういうものである、と言ってしまえばそれまでだけど、そこでMissMunがずっと持ち続けていた怒りや不満が、良い関係があるだけにぶつけることができず、親の前でそうしていたように、出さないようにするという反復があったのかなと。せいぜい言葉で言うぐらいで。言い換えると、悪い面をMissMunもロジャースも協同で否認していたとも。その怒りのワークが必要なのかなって僕としては思いました。
ただ、このビデオは17回だけを切り取って録画されたものなので、それ以外の情報はほぼありません。このMissMunがどういう生育歴で、どういう病歴で、どういう経緯でロジャースの元に来たのか。どういう契約で、どういう構造で、どういう治療目標が設定されているのか。これまでの16回のセッションがどういう流れになっているのか。18回以降のセッションはどうなって、どのように終わったのか。このような情報が全くないので、理解するのが本当に難しいところがあります。セラピーというのは、コンテクストや流れが大事ですから。
僕としては上記のような感じで思ったり、理解したのだけれど、もちろんこれが絶対正解ということではありません。また、単に一つの現象を、一つの方向から見ただけのものにすぎないので、違う理論からすると、別の言葉で表現できたりするかもしれません。
他に見た方がいらっしゃれば、また感想などを聞かせてください。
そして、それと関連しますが、フロイトの書き記したものを「論文」と表記するのか「エッセイ」と表記するのかで随分と印象が変わってきます。しかし、これもよくよくフロイトの書き記したものを読むと、論文と言うほど形式がきっちりあるわけでもなく、「一次過程」に任せて、自由連想風に書いているものがほとんどなので、やはり「エッセイ」という方が合っているのかもしれないです。
少しフロイトのエッセイについて書いてしまいましたが、本書に話を戻すと、著者である北山先生は精神分析の中でも独立学派のウィニコットが専門と書いているだけあって、本書もウィニコット的なところが多々見られました。ウィニコットは臨床的な専門用語を日常的な話し言葉で記述し、そこに曖昧さや多義性を持たせてエッセイを書いていました。本書でも北山先生は小難しい専門用語を日本語の話し言葉的なものに置き換えて書いていました。たとえば「強迫」を「こだわっている」など。このことで随分と実際の臨床的なリアリティに近づいているように感じました。
こういうところからも北山先生とウィニコットって似ているなと思いますが、これは北山先生がウィニコットが好きだから似てきているのか、それとも、似ているから北山先生はウィニコットを好きになったのか、どちらなのかななどとも連想したりしました。まー、卵が先か鶏が先か、の問題に過ぎないのかもしれませんが。
昔は分析可能性ということをあまり分からなかったから、誰から構わず精神分析的なセラピーに導入してしまっていたけど、やっぱり患者は選ばないと行けないんですね。なんか昔を振り返ると悪いことをしていたな〜と反省したりもします。
で、非分析的なセラピーをしていると、ある程度のところで良くなったりして、問題は解決してないけど、「自分でやっていこうと思います」と言って、セラピーが終了します。統計を取ったわけではないけど、比較的短期にそうなる傾向があるように感じます。確かに適応もよくなっているし、薬もある程度少なくなっているから良くなっているのだろうし、だからこそ「自分でやっていきます」といって終了を申し出るんだと思います。でも、僕の天邪鬼的な考えからだと思いますが、問題を否認して、直面することから避けるために終了したのかなってことを考えたりします。単純に良くなったから終了という風に理解することができないんですね。
非分析的なセラピーをしているけど、頭の中では分析的な理解をしていることもあるんですけど、こういう天邪鬼的な考えは、分析的な理解とはそういうものなのか、単に僕個人の考えに過ぎないのかよく分からないところがあります。
コストパフォーマンス的にはこういうことの方が良いのだろうけど、どこかその患者の本質的なありようが扱えず、物足りなさを感じてしまうのは治療者としてのエゴなのかもしれません。
しかし、精神分析を学べば学ぶほど、精神分析的なセラピーに導入することに慎重になっていくように感じます。
その独特の特徴について本書では様々な角度から考察をしています。その考察の中で特に印象に残ったところと言えば、ストレイチーが英訳したスタンダード=エディションについてです。
スタンダード=エディションという名前になっているだけあって、フロイトが直接書いたドイツ語のものよりも世界中で読まれているようです。このスタンダード=エディションのおかげで、精神分析が広く知られることになったという重要な貢献があります。
ただ、本書ではドイツ語版と英語版の違いについて細かく考察をしているのですが、ザックリと言うと、ドイツ語では日常用語に近い言葉で書かれており、親しみやすい感じで、反面、英語版では専門用語的な訳語になっており、硬い感じになっているようです。
具体的な例を挙げると、ドイツ語版でのIch(私)を英語版ではego(自我)と訳されているなどです。
その他にもフロイトの文調について興味深い話がたくさんあって、こうなってくるとフロイト論文を和訳で読むよりも、ドイツ語で読んでみたいという気持ちがムクムクと湧き上がってきます。けど、現実的に見るとドイツ語どころか、英語ですら読めない僕には無理だろうと(笑)。
極めて簡単に結論を書くと、兀鷹は母を表しており、尾は母の失われたペニスである。なので、そこにはエディパルな不安や葛藤、性的欲動、願望が表されている、ということである。このようなところから、人間の性の発達やそれにまつわる空想など、精神分析的発達論の面白さがとてもよく伝わってくる論文であると思う。
また、結論を先に書いてしまったが、この結論に至るまでに、フロイトは色々な資料を提示したり、ディスカッションを繰り返したりしている。この作業はまさしく分析家と被分析者との間で営まれる精神分析療法の様相であり、フロイトの臨床実践がそこかしこに見え隠れするようである。そこには被分析者の空想という素材と、分析家の自由連想というあり方が非常にうまく噛み合わさっており、それを通して、無意識というものを探求し続けていたフロイトの姿勢がありありと眼に浮かぶようであった。
そして、学術的な意味を考えてみれば、幼児期の空想として女性にはペニスは元々あったが、それが去勢されてしまったという観点から発達論を考えている。そして、この論文ではまずその失われたペニスの復活であったり、去勢の否認ということをフロイトは考えている。さらに、その否認のメカニズムは後の1927年の「フェティシズム」論文で体系的にまとめられている。フェティシズムは、母のペニスの代理として機能していると論じている。その後、1939年の「防衛過程における自我の分裂」では、否認・分裂といった原始的な防衛機制の初期の着想として論じられている。ただ、この論文は最後が尻切れトンボで終わってしまっている。
しかし、この尻切れトンボを補う形でクライン学派や対象関係論の精神病水準の防衛として、引き続き議論されていっているようである(ただ、クライン学派ではこの論文の分裂と、クライン学派の分裂は違うという主張をしているようであるが)。そして、その後にシュタイナーにより心的退避・病理的組織化という概念として論じられていくようになる。
川田アナが訪れたのは都内在住のカウンセラーA氏(38)で、主に仕事に対する行き詰まりを打ち明けたという。また、所属事務所はこの日までに川田アナの密葬を終えたことを発表した。
川田アナが自分で調べて存在を知ったカウンセラーのA氏を訪ねたのは今月中旬。初対面で約40分のカウンセリングは、川田アナが悩みを打ち明けることに多くが費やされた。
A氏 最初に孤独な感じですねと切り出すと「分かってもらえるんですね」とホッとした表情で答えていました。執筆業に転職しようか迷っていると。また「国(金沢)に帰りたい。その方が普通の幸せを得られるかも」とも言っていました。
私が「もう少し頑張れば」と返すと、報道の仕事に携わることを希望し、昨年春フリーに転じたものの、思うようにならない現実を打ち明け始めたという。室内のテレビには数日前に発生した中国・四川大地震の悲惨な現場が映し出されていた。「私は9・11テロをテレビで見て、アナウンサーになろうって思ったんです。今なら、リポーターとして中国四川に飛んで、仕事の傍らでボランティア活動をしたいのに…」と、寂しそうに見つめていたという。
A氏は多くの女性が悩んでいるだろう恋愛についても尋ねている。
A氏 「結婚はいつできると思いますか? でも、特定の人はいないんです。私は本気になれないみたい」とは話していました。孤独さは感じましたが、失恋などに陥った雰囲気はなかった。思い返しても仕事への失望、絶望感はあったけど、恋愛問題が自殺の要因になったとは思えません。帰り際に「またうかがってもいいですか?」と尋ねられた。まだ、うつ病のレベルでもなかったし、自殺だなんて、今でも信じられないんです。
川田アナの葬儀は遺族の強い希望でこの日までに密葬で営まれた。自分のブログにつらい心境を明かし続けた末に迎えた死の大きな要因に仕事があったようだ。
最終更新:5月29日10時3分 日刊スポーツ
他のブログやミクシ日記でも色々と書かれているので、僕が書いても屋上屋を重ねることでしかないですけど、一応僕も書いておきます。
臨床心理士は守秘義務というものを有しているので、クライエントが話したことは原則的に他には漏らすことはできないのです。例外的に、自傷他害の危険性が高まった時などはこの限りではありません。そういう時には関係機関やご家族に連絡することもあります。あと、詳しくはないですが、民事・刑事事件などのときに、裁判所命令で開示請求をされたりすることもあるのでしょうか。
なので、このように面接の中で聞いたことをマスコミに知らせるというのは、守秘義務違反なのでしょう。
ただ、このニュース記事では「カウンセラーA氏(38)」としか書いていないのですが、臨床心理士や産業カウンセラーなどの資格は持っているのかどうかは分かりません。何らかの資格があれば、資格剥奪などの処置はできるかもしれませんが、全くの無資格であったり、そういう倫理的なことに頓着しない民間カウンセラー資格であれば、どうしようもないかもしれません。
いや、何らかの民事訴訟を起こすことも可能なのかもしれませんが、その点はよく分かりません。
ただ、どちらにしても、カウンセラーと言われる職業の人は法律的・倫理的・道義的・治療的に、そうやすやすとクライエントの秘密を暴露することは許されないのだろうと僕は考えます。一般の人がこのニュース記事を見た場合、「カウンセラーに話したことは公にされるんだ」という風に思われかねません。
なので、カウンセラーという職業に対する信用が下がりかねない言動をするカウンセラーA氏に対して憤りを感じたりもします。
僕の理解したところで言えば、妄想分裂ポジションと抑うつポジションとの中間に、様々な葛藤や痛みから心を防衛するために構築されたものを病理的組織化と言い、主に否認や倒錯などのメカニズムなどから成っているというところでしょうか。
理論的なところはほとんど理解できなかったけど、症例がたくさん提示されており、全く同じではないものの、似たような症状や行動を示す患者を今までに受け持ったことはあるなとは思いました。確かにそれらの患者に対する対応はとても大変だったですし、あれらを理論的に記述すると心的退避・病理的組織化ということが可能なのかなとは思います。
フェティシズムの関連から書くと、分かっているのに分からない振りをする、知っているのに知らない振りをする、見ているのに見ていない振りをする、という否認の機制と似たようなものとして確かに理解できそうだなと思いました。これらをつきつめていくと精神病的なあり方と、神経症的なあり方の両方が同時にあらわれているということであり、どのようにして理解すれば良いのかというヒントはもらえたように思います。
ただ、11章の技法上の問題の中で取り扱われている、「患者中心の解釈」と「分析家中心の解釈」の違いがあまりよく分かりませんでした。言わんとすることや大雑把な違いは分かるけど、使いどころの違いや、メカニズムの違い、効果の違いについては十分に理解できずに終わった感じです。
僕にとってはかなり高度で難解な書籍だったので、またレベルアップしてから、何年後かに再度チャレンジしてみたいです。

カール=ロジャーズ(著)「ロジャーズ選集(上)」誠心書房 2001年 3990円に収録されているロジャーズの「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件(1957)」という論文の感想です。
(1)心理的な接触がある
(2)クライエントは不適応の状態にある
(3)セラピストは自己が一致している
(4)セラピストは無条件の肯定的関心を寄せている
(5)セラピストはクライエントの内的照合枠に従って共感的理解をしている
(6)3〜5のセラピストの態度がクライエントに知覚されている
ロジャーズはパーソナリティ変化のためには上の6つの条件をすべて満たしていることができていれば良いとしているが、かといってそれ以外のものがまったく不要であるとは述べてなかった。また、あいづちやうなづきは技法としては重要だが、それ自体には意味があるというよりも、それを媒介にして6条件を満たせば良いと考えていたようである。
このことは非常に良く分かる主張で、単に技法的な問題ではなく、その背後にある人間性やスタンスといったものがセラピーには重要であるといった考え方を持っていたのであろうと思う。
また、2〜6の条件は程度問題としており、完璧に「受容できている」とか「共感できている」といったことを維持しなくては行けないとは書いていなかった。ある意味では、到達不能な努力目標として位置づけていたのであろう。
ただ、単純にそれに向けて努力すれば良いというのは、僕には少し疑問が残るところで、臨床をしていれば、共感できないこと、受容できないこと、一致できないこと、が多く起こり、どうしてもポジティブな気持ちを患者に持てないこともある。それを6条件を満たす方向で努力するというだけでは、なんだか腑に落ちないところがある。
そういう「できない」ということはそれ自体に何かの意味があり、それこそが関係の一部が現れているのだと理解することができる。そして、その意味について理解していくことで、「共感」「受容」「一致」できるようになっていくことが僕の経験としては多かったと思う。このことをロジャーズは「チャンネルを通して」という風に表現しているのかもしれないが。
とにかく、単に杓子定規に「共感」「受容」「一致」したら良いというのはやはり誤ってロジャーズを理解しているということになると思う。ロジャーズ派かどうかは別としても、一度はこの論文に目を通しておくことは大切なことであろうと思う。




