(1)吉田雄兎氏が1983年に出版した「私の戦争犯罪−朝鮮人強制連行」で従軍慰安婦について取り上げる
(2)韓国挺身隊問題対策協議会の出版した「証言集」
(3)太平洋戦争犠牲者遺族会(韓国)の聞き取り調査
(4)従軍慰安婦について謝罪した河野談話(1993年8月4日)
この4つですが、いずれもその後の検証によって、これらが信憑性がないものとなっているようです。それらを簡単に説明します。
(1)吉田氏本人が従軍慰安婦の話はフィクション・嘘だったと1989年8月14日に韓国の新聞で言っている。
(2)中身が矛盾に満ちている。しかも、一番信憑性のある証言をする人でも、強制連行ではなく親に軍ではなく業者に売られていたと証言している。
(3)内容が非公開で、事実について検証されていない。
(4)当時の宮澤喜一首相が従軍慰安婦についてきちんと調査する時間がなく、その場しのぎの謝罪で事態の沈静化をはかろうとしただけ。
その他の従軍慰安婦の存在を否定するいくつかの論拠はあるのですが、「ない」ということは論理学上できないので、「ない」ということを間接的に支持する論拠ぐらいにとってください。
(5)強制連行を指示した文書が存在しない(1997年6月17日談話)。
(6)1951年から1965年の14年間にわたる日韓国交正常化のための日韓交渉の中で一度も従軍慰安婦問題が出てこない。従軍慰安婦の問題が急に取りざたされたのは1989年の吉田氏の著書(後にフィクションと)と、1991年8月11日の朝日新聞の従軍慰安婦の記事から。(1)で書いたとおり吉田氏の著作はフィクションであり、朝日新聞も後に従軍慰安婦は居たかどうかは疑問であると1997年3月31日に訂正記事を書いている。
(7)米国の議会や裁判所に度々韓国の団体から日本に対して賠償訴訟などが起こされていたが、最終的に2006年2年21日に米国にて起こされていた韓国から日本に対する賠償訴訟が却下された。これによって事実上従軍慰安婦問題の訴訟は決着がついた。
さらに百歩どころか万歩譲って、強制連行による従軍慰安婦があったとして、賠償責任はあるのかどうかというと、「賠償責任は無い」のです。
(8)1965年の日韓国交正常化の際に結ばれた「請求権・経済協力協定」により、両国間の問題は「完全かつ最終的に解決された」と明記されている。
(9)1965年に5億ドル(当時の韓国の外貨準備高の約3〜4倍)の経済協力を韓国に行っている。
他にも色々とあるようですので、「従軍慰安婦 捏造」や「従軍慰安婦 嘘」といったキーワードで検索してもらえたらゾロゾロと出てくると思います。
あと、意外とこの手のことについては全く知らない、聞いた事がないという人が多いようだったので、実際にはどうなのか、ということを調べるためにアンケートを作ってみました。ネットでのアンケートの信憑性はバイアスや母集団などの問題で低いので、これを根拠に何かを言うとか、研究にするとかではなくて、単に興味関心の範囲内ですので。
強制連行による従軍慰安婦について
http://www.efeel.to/survey/purely/
最後に参考サイト・参考ホームページを載せておきます。
<参考>
『慰安婦問題 おさらい10問10答』その1
『慰安婦問題 おさらい10問10答』その2
従軍慰安婦の正体
従軍慰安婦の嘘
Media Watch: 「従軍慰安婦」問題(上)
Media Watch: 「従軍慰安婦」問題(下)
従軍慰安婦問題を仕掛けたのは日本人
従軍慰安婦問題・解説編
従軍慰安婦問題・検証編
メラニー・クライン著作集3巻 ”愛、罪そして償い” 誠信書房 pp3-14
そのアレンジとは、フロイトは超自我を5歳以降のエディプスコンプレックスの解消と共に成立するものとしていたが、クラインはそれ以前の乳幼児期から超自我は存在するとした。また、フロイトの言っている超自我とは多少性質も違い、クラインのいう超自我は大変破壊性が強く、厳しく、過酷で、乳幼児の自我を圧迫し、強い不安を押し付けるものとしたのである。またその過酷な超自我はもともとは乳幼児のサディズムに端を発しており、サディズムが強ければ強いほど超自我も強くなるのである。さらに、さの超自我は外界にも排出され、それは迫害的・被害的な不安をも喚起するのである。そして、フロイトは超自我を父親からの取り入れとして記述していたが、クラインは過酷な超自我は親の性質に似ているが、基本的に生得的に備わっているものとしているようである。そして、反社会的・犯罪的な行動は、一般に理解されているように、超自我の欠如によるものではなく、逆に超自我が強いがゆえに起こるとしている。このことから、分析の目的は、過酷な超自我からの圧迫を低減させることにあるとしている。
この辺りのアイデアが現代的なクライン派・対象関係論といった精神分析にも受け継がれており、自我心理学と一線を画するところとなっているのは明白である。精神分析の中で、この超自我を転移の文脈に応じて解釈していくことにより、超自我の圧迫は力を緩め、患者本来の制止されていた、押さえ込まれていた欲動が自然な形で扱えるようになるのであろう。まさにここにワークスルーが展開すると思われるのである。
確かに僕自身の臨床を振り返っても、重篤な患者になればなるほど、超自我の圧力が強かったり、迫害的な心性を持ち続けることが多いように思う。なかなか最早期にまでさかのぼる分析をすることは難しいのであるが、このような理解を背景にもっておくことによって、心にスペースを持ちながら対応することができるように感じる。
さらに、この論文の最後でクラインは精神分析の未来についても語っている。クラインは「分析によってすべての攻撃衝動を消去することは出来ない」と前置きしつつも、「人間の生活全体へと及ぶべく運命付けられている」と言ったり、「学校教育と同じように子どもの精神分析が育児の一部となる」と言ったり、かなり精神分析を万能的・魔術的に捉えているようであった。もしくはマニックになっているのかもしれない。残念ながら2009年現在ではクラインが想像したようなユートピアは作られていないが、クラインが見出したサディズムとそこから生じる過酷な超自我/迫害不安は現代の精神分析や心理臨床に大きな貢献をしているのは事実である。
この章は6ページという短い量ではあるだけに、端的に、シンプルに、分かりやすく記述されているところが特徴である。そして、クラインは「たとえ充分に行われた治療においても、それは子どもの前性器的な固着点とサディズムの強さを減弱するだけであり、それらをすべて取り除くわけではない」と言っている。完全な治癒というのはないということをクラインは言っており、それはフロイトが1937年の「終わりある分析と終わりなき分析」で書かれているような精神分析の限界について一歩先に記述しているようにも思えるところである。
現代では精神分析の限界についてはもう少し色々とありそうである。虐待や犯罪被害、金銭問題といった現実的な対応を臨床家としては迫られることは多く、その対応にはやはり現実への介入が必要になってくることも多い。さらに、自分自身について考えることをニードとしてもっておらず、そこは触れないでもらいたいと直接的に言う患者もいる。現代ではインフォームドコンセントという概念があり、それにのっとることが必要であるとされているのだが、患者のニードに合うものを提供しなければならない。そこで精神分析を選択するチャンスというのは、多くの場合はない。僕も数多くの患者を抱えているが、その中でも精神分析的セラピーを行っているのは、約1割程度である。その他の約9割はサポーティブなセラピーやガイダンスを行っている。このようなところも精神分析の限界であろうとは思うが、クラインはもちろん触れてはいない。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
フロイトは発達については性的な欲動の働きが重要と捉えているが、クラインはそれに加えて、サディズム・攻撃性・破壊性が重要としているところにクラインらしさがあらわれているように思う。この発達を性から攻撃に視点を移すことにより、フロイトの時期には混乱していた、男の子の発達と女の子の発達の矛盾やそぐわなさが多少なりとも薄まっているようにも感じるところである。
そして、本章の後半では、二つの症例を通して男の子の発達について考察をしている。一つ目の症例は強迫や妄想をもった同性愛の男性、二つ目の症例は抑うつを呈するこれもまた同性愛の男性である。ここでクラインは症例を通して、サディズムの発達や性的発達について色々と論じている。しかし、クラインの書き方の特徴なのか、実際に症例がどのような連想をしたのか、クラインがどのような解釈を行ったのかが、全く記述されておらず、クラインの考察した結果のみが書かれている。このことから、どのような転移があり、そこにどのように空想が現れ、どのように展開したのかが見えないので、あまり理解できないように感じてしまうのは否定できない。
さらに、本書は「児童の精神分析」ということで、メインは子どもや児童なのだが、ここでは成人の症例を提示しているので、一瞬不可思議にも感じた。しかし、成人の中に子どもを見ていくのが精神分析であるし、今ある症状は幼少期の何らかの固着との関係があるから、成人を見ようが、子どもを見ようが、それはどちらにしても同じなのかもしれない。これは精神分析の独自性にもつながるが、基本的には精神分析では正常と異常という考え方をしないし、そういう分け方をしない。色んな精神疾患や精神障害、精神症状があるが、それはすべて幼少期の各段階において体験するものなのである。例えば、妄想や幻覚といった症状は、生まれてから3ヶ月ぐらいまでの間に体験するものなのである。抑うつにしても、3ヶ月〜半年の間に子どもは体験しているのである。そして、成人になってからのそういった症状は、過去に体験した、もしくは固着している心的なありように退行し、そこでやり残したワークをもう一度体験しようとしているだけのことなのである。だから、正常という考え方自体が精神分析にはなく、しいていうと皆が異常なのである。
時折、精神分析に対する批判で、異常な心理を分析して、それを正常な心理に当てはめている、といったものがある。それは異常と正常という分類をし、その間には全く関連性がないとしている人からすると、そう見えてしまうのかもしれない。しかし、異常も正常も価値観一つで変わってくるものであるし、その見方がどれほど妥当性のあるものなのかは疑問である。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
この章でクラインが言いたいことは、女の子の心理性的な発達がどのように変遷していくのかということである。精神分析はジェンダー論者やフェミニストから女性蔑視であるといわれのない誤解を受けることが多いが、その一つのやり玉はフロイトのエディプスコンプレックスや男根羨望などに向けられている。実際の発達ラインはおいておくとして、精神分析の中で見られる幼児的空想がそのように展開されることが多いし、それを扱っていくことがセラピーを進展させていくことはよく知られていることである。このことから、精神分析では空想のものとして理解することが多いが、誤解する人たちはこれを現実のものとして理解してしまうところがあるのかもしれない。
話はそれてしまったが、クラインはフロイトの考えた発達ラインを元に、彼女なりに同意したり、否定したり、アレンジしたりしている。クラインが考える発達、特に女の子の発達は、元々のサディスティックな攻撃性を持っているが、それが投影されて母親からサディスティックに破壊されるという不安を抱く。そこでミルクを与えてくれる良い対象と、破壊してくる悪い対象に分裂する。そして、母親から父親を奪い、口唇的満足を得ようとする。しかし、その父親に対してもアンビバレントを持ち、悪い父親にはサディスティックな衝動を、良い父親からは取り入れを行う。このことから、フロイト以上にサディズム・破壊性・攻撃性というものを重要視しているようである。というもののようであるが、こういう理解であっているのか不安である。正直なところ、分からない・理解できていないというのが率直な感想である。
たぶん、幼児の精神分析を通して、プレイや転移を受け皿として展開する空想からこのような理論をクラインは構築したと思われる。その為、かなり早期の空想状況がクラインには見られたのであろうし、そこでは幼児的な思考にならなければ分からないのかもしれない。本を読んでいると、どうしても大人の思考になっているので、なかなか理解しにくいのかもしれない。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
このためか、本章ではクラインは自我の重要性についてかなりつっこんで触れており、あたかもアンナ=フロイトの言葉であるかのような、「現実の適応を助け、自我の成長を促す」といったような自我心理学的な見方をしている箇所もあった。もちろん、クライン流の早期の不安状況や、エディプスコンプレックス以前の生得的で過酷な超自我の理論なども書かれているのだが。
しかし、本章だけではないのだが、クラインはあちこちで「フロイトの理論と私の理論は共通性がある」と力説している。やはり精神分析の祖としてのフロイトに正当な継承者であると思いたいのであろうし、フロイトに認められたいという強い気持ちがあるのだろう。特に1925年に訓練分析家であり、師でもあるアブラハムが亡くなり、その後、精神分析の僻地であるイギリス・ロンドンに流れてしまったという経緯も関係している。ジョーンズが盛り立ててくれていたとはいえ、クラインが真に理解され、受容され、認められるという経験は少なかったのであろう。また、この頃になると、遊戯分析のパイオニアとしての地位も確立しつつあり、ますますクラインの中の子どもの部分は満足を得ることができなかったのかもしれない。そのような中でフロイトに認められることや、フロイトの正当な継承者であることがクラインの唯一の心の拠り所だったのかもしれない。
このようなところから、まさにクラインの著作はフロイトに向けて書き続けられているのであろう。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
この強迫神経症について、クラインはこの章において、フロイトやアブラハムなどを参照しつつも、独自の強迫神経症理解を展開している。まずクラインはフロイトのラットマン症例やウルフマン症例を取り扱いながら、フロイトが想定しているよりも早期の発達が重要であると主張している。そして、「強迫神経症は非常に早期の精神病的状況を救おうとする試みである」としている。こうなってくるとフロイトが考えたような肛門期固着とは違ってきており、大変重症な病理へと理解しなおしているのである。
しかし、このクラインの強迫神経症の理解であるが、僕自身の臨床からも納得ができるところは多い。というのも、強迫神経症は、不安神経症・恐怖症・ヒステリー・抑うつ神経症・パニック障害といったその他の神経症の患者と比較しても、多少病理が重たい例が多く、強迫の型が現実検討力を失い、パラノイックな展開を時に見せることもある。どこで聞いたか忘れたが、強迫神経症は自我とエスとの間の境界が甘いところがある、ということを聞いたことがある。そのことから考えても、早期の不安や発達が容易に出てくるということも分からないでもない。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
また、良い対象/悪い対象という表現がここでは使われており、部分対象関係の考え方がここで既に展開されている。まさにスプリットという原始的防衛機制が優勢に活動しているということであり、ここが対象関係論的視点の元と言えるところだと思う。
しかし、本章で表現されているようなおどろおどろしい世界はもちろんクラインの上に転移として展開されていたのだろうと思うと、それに耐えて、扱い続けることの大変さはやってみなければ分からないところかもしれない。なので、これらのことをワークしていくことは大変な作業が必要となる。フロイトの時期に比べたら、回数も年数も格段に長くなっていったのも分からないでもない。フロイトの精神分析は長くても1年ほどで、短かったら半年で終了していたこともあったそうである。扱っていかなければならない問題が増えていき、また深まっていくことで、精神分析は他のセラピーでは考えられないぐらい長時間を要することになっていったのであろう。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
また、子どもの相談を受けていると、親御さんから子どもの性的な活動について話を聞く事はよくある。「この子はよく”チンチン!”って叫ぶんですよ(笑)」といった笑い話から、性器いじりなどの習慣的なマスターベーションの問題に困ってる話からさまざまである。さらには、小学生のスカートめくりなどのいじめ・いたづらもこれらに含めても良いだろう。もっと深刻な問題になると、子どもに対する性的虐待などもある。これらのことを考えても、子どもと性とは密着な関係があり、時と場合によっては重大な問題になることもしばしばである。
この7章でクラインが提示している症例も大きな問題を抱えているように思われる。第1の症例は6歳と5歳の兄弟間の性的行為である。相互的なフェラチオやサディスティックな性的攻撃などが行われているようである。そこには不安と罪悪感、性的願望が蠢いており、発達早期の問題が取り扱われている。またクラインはそこに精神病水準の病理についても示唆している。第2の症例は14歳の兄と12歳の妹の近親姦の問題である。兄は罪悪感を持ち、妹は持ってなかったようである。両親からの禁止された幻想が、二人がお互いにその受け皿になっており、近親姦に至ったというような結論をクラインは記述している。この2つの兄弟姉妹の症例はかなり問題が大きく、一般の事例よりも逸脱はしているが、その分だけ、子どもの性にまつわる幻想などがよりリアルにプレイの中で展開しており、大変分かりやすいと言うこともできる。
性というのは、ある部分では欲望満足・欲求充足である。そして、常にそれを満たそうとする。しかし、満たされたらそれで話は終わりなのかというと、そうではなく、満たしたら満たした分だけ罪悪感もまた募る。罪悪感は超自我的な禁止が働いているのである。ここに満たしたい思いと満たしたくない思いといういわば相反的な願望がアンビバレントとなり、心の中で折り合いがつかなくなってしまう。このようなアンビバレントは性にまつわることだけではなく、もっと抽象的で高次元の願望でも同様に表れるだろう。
しかし、性的活動という話からはずれるかもしれないが、この2つの症例、4人の子どもはそれぞれ兄弟姉妹である。その両方ともクラインが分析をしていたようである。家族をそれぞれ同じ分析家が対応することは大変な困難が伴うことだろうと思う。僕も経験があるが、家族力動に挟まれ、誰が誰の味方をするか、自分の陣営に引き入れるか、誰と結託しているか、誰が敵なのかが錯綜してしまう。転移がばらけるとも言えるし、現実的な影響が強く、純粋に転移を扱うことが難しくなってしまう。このような問題をクラインはどのようにさばいていったのかがとても気になるところである。しかし、この時代の精神分析というのは、こういう構造での分析は結構あったのかもしれない。フロイトは自分の娘であるアンナ=フロイトを分析していたし、ジョーンズは自分の娘をクラインに分析させていた。クラインはウィニコットに自分の娘を分析させ、そのスーパーヴィジョンを行っていた。被分析者と結婚した人もいたようである。このように、現実的な関係が深く分析状況に影響を与えている中で精神分析が行われていることが多かったようなので、兄弟を一人の分析家が精神分析をそれぞれにするということは全然普通のことだったのかもしれない。現代では、家族や知り合いを分析することはしないし、兄弟や家族がそれぞれ来たとしても、もし可能なら別々の分析家が分析することが一般的だろう。家族療法などでは違うと思うが。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
クラインは子どもの問題の一つの指標として、知識への抑止、活動の抑止、遊びへの抑止を挙げている。子どもは自由に遊び、自己を表現し、色々なものを取り入れていくことが大事であるが、それが何らかの理由から阻害されていることをクラインは重要な問題と見ている。特に性的なものに対する抑止を重視しているようで、それはクラインが初期の論文から主張し続けていることである。精神分析の一つの目標に、自由連想ができるようになること、というのがある。これは何かと言うと、精神分析的セッティングでは自由連想をすることを被分析者は課せられるのだが、実際に自由連想をすぐにできるケースというのはほとんどない。というよりも、自由連想が出来るというのは不可能なことであり、いわゆる努力目標とするのが妥当なのである。自由連想ができないのは、そこに抵抗や転移があり、それを解釈によって解消していくことが精神分析であるとフロイトはしている。後のクライン派や対象関係論では多少異なってくるが、基本スタイルはそうである。クラインは遊びと自由連想を同等のものとしているのであるが、このことから考えても、子どもに遊びの抑止があることそのものが問題としているのは分かるような気がする。クラインは自由連想と同様に、遊びが抑止されるのはそこに抵抗や転移があるので、そこを解釈していくが重要としている。また、クラインは特に性的な問題を取り扱っていくことに重点をおいているようである。
またクラインは、すべての人は神経症と精神病を通過している、と大胆なことを言っている。発達のある過程と、顕在化している精神障害との類似は今日では一般的に知られていることであるが、クラインはこの時点ですでにそれを指摘しているのかもしれない。後期クライン理論では、妄想分裂ポジションは生後すぐから2〜3ヶ月の乳児に体験されていることであり、抑うつポジションは半年ぐらいまでの幼児には体験されていることである。その心性は心を作る部分として成人になってからも存在しており、それが何らかの要因により、退行して、乳幼児の心性が表に出てくるのである。それがいわゆる精神障害として理解されるのである。現在の生物学的精神医学とは真っ向反対のことかもしれないし、これが本当はどうかは分からないが、そのような観点からセラピーや分析を行うと大変よく理解できるのである。そう言えば、日本の分析家である小倉清先生はいつかのセミナーで「すべての子どもにきちんとした精神分析を行えば統合失調症はこの世からなくなる」といったことを言っていた。ものすごく過激な発言であり、100%賛同できるものではないが、ある部分では理解できる話である。
そして、治癒をどこに置くのかについても言及している。フロイトは「働くことと愛すること」という命題を残しており、クラインもそれを引用しつつ、子どもではその基準は難しいと考えているようである。いくつか治癒の基準を挙げているが、遊びの抑止の減少、遊びへの関心が深くなり安定する、遊びへの関心が広がる、としている。さらには、成人の神経症の予防効果としての精神分析の価値をも指摘している。しかし、精神分析をする上でのお金と時間と労力といったコストはかなり膨大になってくる。そのようなものをかけてまで予防のために精神分析を行うのは現在的な価値基準では無理がありそうにも思うが。
最後にクラインは簡単ではあるが、重要な指摘を行っている。それは遊びはマスターベーション幻想の表現の手段であるというものである。このマスターベーション幻想というのが具体的にどういうものを指しているのかは本書で示されている事例を読むと分かるが、子どものさまざまな性的な関心や嗜好性が親などに対して向けられ、さらに自分の性的満足のために奉仕されることだろうと思う。さらに本書ではあまり述べられてないが、精神分析の中における転移の重要性から鑑みると、このような幻想が遊戯療法の中で、クラインという分析家に対して向けられていたのだろうと想像できる。
<目次>
第1部 児童分析の技法
第1章 児童分析の心理学的基礎
第2章 早期分析の技法
第3章 6歳の少女における強迫神経症
第4章 潜伏期における分析の技法
第5章 思春期における分析の技法
第6章 子どもの神経症
第7章 子どもの性的活動
第2部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響
第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階
第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係
第10章 自我の発達における早期不安状況の意義
第11章 女の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
第12章 男の子の性的活動に対する早期の不安状況の影響
補遺 児童分析の範囲と限界
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