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メラニー・クライン(著) 「転移の起源」 1952年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp61-72
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp61-72
精神分析が他の心理療法や心理治療と一線を画する一番のオリジナリティと言えば、この転移についてである。他の心理療法でも折衷的な人は転移という言葉を使ったりするが、これを直接扱う技法はほとんど持ち合わせていないであろう。転移を扱うことがイコール精神分析というわけではないが、精神分析技法において転移は大変重要な位置を占めていると言える。
ただ、転移は過去の重要な人物との反復である、という誤解をされることが多い。フロイトは1912年の「転移の力動性について」で、転移を単なる過去の反復であるとは言わず、過去の人物との間で満たされなかった気持ちや感情が現在の人物との関係の中に持ち込まれるものである、としている。ここが微妙な違いでありつつ、重要な違いでもある。
そしてクラインはこの論文においてクライン流の転移の理解や扱いについて詳細に述べている。すなわち、人生の最早期の対象関係との関連を転移を絡めて論じているのである。フロイトは人生の最早期には対象関係はなく、自体愛と自己愛の世界に没入しており、対象関係はないとしている。その為、転移は現れないと考えているようである。このことから、プレエディパルの時期に固着を持つ精神病については転移は起こらないので精神分析は不可能であると言っている。しかし、クラインは自体愛・自己愛に先んじて対象関係は存在しているので、プレエディパルの時期に固着をもっている患者も転移は起こるとしている。すなわち精神病の精神分析も可能であると言っている。ここがクラインとフロイトの大きな違いである。クラインはそういう意味では精神分析の適用を大幅に広げたと言えるであろう。
また、現代的には転移は逆転移と不可分のものであり、転移解釈の際には逆転移の吟味が重要であるとされている。しかし、クラインは本論文でもそうであるが逆転移についてはほとんど触れていない。ハイマンが1950年に「逆転移について」という論文を書いたが、クラインはそれに対して、逆転移は治療の妨げになるので、安易な活用は危険であるといったことを主張し、ハイマンとの関係に亀裂が入ったようである。この点に関しては色々な意見があるだろうが、確かにクラインのいうように安易に逆転移を治療に生かすことの是非は検討していかねばならないだろう。十分な訓練分析と治療経験がなければ、逆転移は単なる治療者の個人的病理の表出にすぎなくなってしまうのである。しかし、逆に言えば、十分な訓練分析と治療経験をすることで逆転移を活用していくことは可能である。治療に生かすというレベルにはいかなくても、多かれ少なかれ起こっている逆転移を認識していくことは大切であると思う。逆転移を無視するという逆転移が起こっていては意味がないのである。
ただ、転移は過去の重要な人物との反復である、という誤解をされることが多い。フロイトは1912年の「転移の力動性について」で、転移を単なる過去の反復であるとは言わず、過去の人物との間で満たされなかった気持ちや感情が現在の人物との関係の中に持ち込まれるものである、としている。ここが微妙な違いでありつつ、重要な違いでもある。
そしてクラインはこの論文においてクライン流の転移の理解や扱いについて詳細に述べている。すなわち、人生の最早期の対象関係との関連を転移を絡めて論じているのである。フロイトは人生の最早期には対象関係はなく、自体愛と自己愛の世界に没入しており、対象関係はないとしている。その為、転移は現れないと考えているようである。このことから、プレエディパルの時期に固着を持つ精神病については転移は起こらないので精神分析は不可能であると言っている。しかし、クラインは自体愛・自己愛に先んじて対象関係は存在しているので、プレエディパルの時期に固着をもっている患者も転移は起こるとしている。すなわち精神病の精神分析も可能であると言っている。ここがクラインとフロイトの大きな違いである。クラインはそういう意味では精神分析の適用を大幅に広げたと言えるであろう。
また、現代的には転移は逆転移と不可分のものであり、転移解釈の際には逆転移の吟味が重要であるとされている。しかし、クラインは本論文でもそうであるが逆転移についてはほとんど触れていない。ハイマンが1950年に「逆転移について」という論文を書いたが、クラインはそれに対して、逆転移は治療の妨げになるので、安易な活用は危険であるといったことを主張し、ハイマンとの関係に亀裂が入ったようである。この点に関しては色々な意見があるだろうが、確かにクラインのいうように安易に逆転移を治療に生かすことの是非は検討していかねばならないだろう。十分な訓練分析と治療経験がなければ、逆転移は単なる治療者の個人的病理の表出にすぎなくなってしまうのである。しかし、逆に言えば、十分な訓練分析と治療経験をすることで逆転移を活用していくことは可能である。治療に生かすというレベルにはいかなくても、多かれ少なかれ起こっている逆転移を認識していくことは大切であると思う。逆転移を無視するという逆転移が起こっていては意味がないのである。
メラニー・クライン(著) 「精神分析の終結のための基準について」 1950年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp55-60
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp55-60
何事にも終わりというものはあり、それは精神分析と言えども例外ではない。クラインはこれまでの経験からクラインなりの終結の基準について本論文で述べている。簡単に要約すると、迫害不安と抑うつ不安が緩和され、自我の安定性と現実感が増大し、幻想生活と情緒を自由に体験する能力を得て、さらには喪の仕事が果たされること、を挙げている。本論文は6ページほどの短いもので、特に込み入った議論をすることもなく、クラインの考えを提示しているだけといった感じである。
精神分析の終結というと真っ先に思い浮かべるのがフロイトの1939年「終わりある分析と終わりなき分析」である。フロイトは初期には精神分析が万能の方法であるといった多少マニックな考えを持っていた。しかし、さまざまな思想の変遷を経て、徐々に自分自身の死が近づくにつれ、精神分析の限界を考えるようになったようである。その中で生み出されたのがこの論文である。ここでは精神分析の限界などについて書かれており、多少抑うつ的なトーンに彩られている。精神分析は本当に役に立つのか?といった議論まで延々とされている。
このフロイトの精神分析の終結についての延々と議論をし、自問自答し、限界があるのではないかといった結論を導き出しているところと、このクラインの「精神分析の終結のための基準について」に書かれている楽観論とを比較すると大きな開きが感じられる。誤解を恐れずに言えば、クラインの論文は軽い感じなのである。
しかし、僕もそんな偉そうなことをいえる立場ではなく、実際的に精神分析をきちんと終結に持っていったケースなどは本当に数少ない。ほとんどが中断したり、そこそこのところで終了となったりすることが多い。もちろん、だからといってそれらが全然ダメと卑下することもしないが、満足しているともまた言えない。終結は単なる時間の区切りであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのかもしれない。中断・終了・終結は単に終わり方を分類しただけであり、その本質はもっと別のところにあるようにも思う。もっと言えば、終わり方はその人のありようの一部であり、それこそが分析の対象にもなるのかもしれない。
精神分析の終結というと真っ先に思い浮かべるのがフロイトの1939年「終わりある分析と終わりなき分析」である。フロイトは初期には精神分析が万能の方法であるといった多少マニックな考えを持っていた。しかし、さまざまな思想の変遷を経て、徐々に自分自身の死が近づくにつれ、精神分析の限界を考えるようになったようである。その中で生み出されたのがこの論文である。ここでは精神分析の限界などについて書かれており、多少抑うつ的なトーンに彩られている。精神分析は本当に役に立つのか?といった議論まで延々とされている。
このフロイトの精神分析の終結についての延々と議論をし、自問自答し、限界があるのではないかといった結論を導き出しているところと、このクラインの「精神分析の終結のための基準について」に書かれている楽観論とを比較すると大きな開きが感じられる。誤解を恐れずに言えば、クラインの論文は軽い感じなのである。
しかし、僕もそんな偉そうなことをいえる立場ではなく、実際的に精神分析をきちんと終結に持っていったケースなどは本当に数少ない。ほとんどが中断したり、そこそこのところで終了となったりすることが多い。もちろん、だからといってそれらが全然ダメと卑下することもしないが、満足しているともまた言えない。終結は単なる時間の区切りであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのかもしれない。中断・終了・終結は単に終わり方を分類しただけであり、その本質はもっと別のところにあるようにも思う。もっと言えば、終わり方はその人のありようの一部であり、それこそが分析の対象にもなるのかもしれない。
メラニー・クライン(著) 「不安と罪悪感の理論について」 1948年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp33-54
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp33-54
クラインがこれまでの構築した攻撃性―不安―罪悪感といった一連の理解を要約し、まとめた論文。その為、ある程度分かりやすく、整理されて書かれている。反面、特に新しい概念が追加されたり、理論が進展したりということはあまりないよう。
クラインはフロイトの死の本能を取り上げ、そこから派生する不安などを整理している。しかし、フロイトのいう死の本能とクラインがいうそれとは多少の違いがあるようである。すなわちフロイトのいう死の本能は生命体が消滅の方向にヒタヒタと静かに人知れず突き進んでいく不気味なものを想定していたのに対し、クラインは死の本能を攻撃的で活動的でサディスティックで、大変動的なものとしているようである。まさに赤ん坊がワー!と泣き喚くような大変激しいものがイメージされる。
そしてクラインは、それらの死の本能が他者に投影される時、自らの死の本能が自らを攻撃してくる時、迫害的な不安を感じ、死の本能は自分のものであると認識し、それが他者を破壊してしまっているのではないかというときに抑うつ不安を感じるとしている。すなわち、迫害的不安から抑うつ的不安に変わる時、罪悪感が現れるとしている。これはフロイトがエディプスコンプレックスの結果として罪悪感が形成されるとしたこととはかなりの相違があり、フロイトが考えるよりも早期に罪悪感が形成されるとクラインは見ているようである。
クラインはフロイトの死の本能を取り上げ、そこから派生する不安などを整理している。しかし、フロイトのいう死の本能とクラインがいうそれとは多少の違いがあるようである。すなわちフロイトのいう死の本能は生命体が消滅の方向にヒタヒタと静かに人知れず突き進んでいく不気味なものを想定していたのに対し、クラインは死の本能を攻撃的で活動的でサディスティックで、大変動的なものとしているようである。まさに赤ん坊がワー!と泣き喚くような大変激しいものがイメージされる。
そしてクラインは、それらの死の本能が他者に投影される時、自らの死の本能が自らを攻撃してくる時、迫害的な不安を感じ、死の本能は自分のものであると認識し、それが他者を破壊してしまっているのではないかというときに抑うつ不安を感じるとしている。すなわち、迫害的不安から抑うつ的不安に変わる時、罪悪感が現れるとしている。これはフロイトがエディプスコンプレックスの結果として罪悪感が形成されるとしたこととはかなりの相違があり、フロイトが考えるよりも早期に罪悪感が形成されるとクラインは見ているようである。
メラニー・クライン(著) 「分裂的機制についての覚書」 1946年
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp3-32
メラニー・クライン著作集4巻 ”妄想的・分裂的世界” 誠信書房 pp3-32
クラインの理論として、抑うつポジションと妄想分裂ポジションは大変有名であり、臨床的にも有用であることは広く知られている。特に、神経症・人格障害・精神病といった病態水準を見立てる上では、必要不可欠であると思われる。その内の抑うつポジションは1935年の「躁うつ状態の心因論に関する寄与」と、1940年の「喪とその躁うつ状態との関係」において定式化され、そして本論文で妄想分裂ポジションが定式化された。ここにおいて、クラインの心的構造論が一応の形を成したということができる。ただ、この妄想分裂ポジションも定式化されたのは本論文であるが、それに関することは初期の論文でも触れられており、早期幼児期における妄想やサディズム、迫害不安、スプリッティングなどは常にクラインの主張するところであった。
そして、本論文のもう一つの重要なタームに投影同一化がある。訳によって投影同一視と言われたりもしているが、単に「視」という状態を表すだけではなく、「化」という力動的な概念もそこに含まれているので、投影同一化の方がより訳語としては良いのではないかと思う。この投影同一化はクラインは病的な過程をニュアンスとして含めていたようである。確かに人格障害や精神病の患者を理解する上で投影同一化の概念は欠かせない。しかし、後のビオンは投影同一化を健康な発達をうながす機能もあることを指摘し、その概念の幅を広げていったことも意味あることだと思う。
これらの抑うつポジション・妄想分裂ポジションは人の心のありようを理解する上での非常に重要であり、フロイトの発達論(口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期)に並ぶものと言える。ただ、フロイトの発達論はその段階を経て、より高次の発達に上っていくという意味合いが強い。反対にクラインのポジション論は、古いポジションは捨て去られるのではなく、その両方ともが同時に存在し、時と場合によって、どちらが前面に出てくるのかの違いに過ぎないと主張している。その為、生涯を通して、二つのポジションは心の中で生き続けるのである。そこにクラインは段階ではなくポジションと命名した理由があるのだと思う。
そして、本論文のもう一つの重要なタームに投影同一化がある。訳によって投影同一視と言われたりもしているが、単に「視」という状態を表すだけではなく、「化」という力動的な概念もそこに含まれているので、投影同一化の方がより訳語としては良いのではないかと思う。この投影同一化はクラインは病的な過程をニュアンスとして含めていたようである。確かに人格障害や精神病の患者を理解する上で投影同一化の概念は欠かせない。しかし、後のビオンは投影同一化を健康な発達をうながす機能もあることを指摘し、その概念の幅を広げていったことも意味あることだと思う。
これらの抑うつポジション・妄想分裂ポジションは人の心のありようを理解する上での非常に重要であり、フロイトの発達論(口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期)に並ぶものと言える。ただ、フロイトの発達論はその段階を経て、より高次の発達に上っていくという意味合いが強い。反対にクラインのポジション論は、古いポジションは捨て去られるのではなく、その両方ともが同時に存在し、時と場合によって、どちらが前面に出てくるのかの違いに過ぎないと主張している。その為、生涯を通して、二つのポジションは心の中で生き続けるのである。そこにクラインは段階ではなくポジションと命名した理由があるのだと思う。
良いか悪いかは別として最近は日本も訴訟社会になってきました。臨床心理士やカウンセラーも個人の空想や内的世界に関わる一方で、社会的な存在として法律や倫理といったものを考えていかねばならないこともあるかと思います。本書はこのような世情の中で、現実的にぶつかる問題について法律的な側面から書かれています。心理臨床の技法や理論の本はたくさん出ていますが、法律に関する書籍は大変珍しいのではないかと思います。
本書はQ&A方式で、現実的にありえるケースを素材にして多角的に論じられています。また、本書の対象者が法律の専門家ではないということを念頭において、平易な文章で書かれています。ただ、それでも法律の専門用語は出てくるし、法学的な回りくどい言い回しなどがあり、何度か読み直さないと理解し難いところはありますが。
本書には34個のQ&Aがあり、例えば、実践的に守秘義務はどういう時に守り、どういう時に解除されるのか、どういう時に賠償責任を負い、どういう時には負わなくて良いのかなど詳しくかつ具体的に書かれているので大変参考になると思います。
そして、本書を読んで思うのは、当初はインフォームドコンセントをすることや、契約は書面に残すことなどは、法的な争いにならないため、もしくは法的争いになった時に勝つ為だと思っていたところはあります。しかし、これらを突き詰めていくと、そのようなことをするのは単に法的争いに勝つ為ではなく、そうすることがクライエントの福祉と利益につながるものであることが分かります。例えば、プライバシーを守らないと訴訟を起こされるという考えだけではなく、プライバシーを守ることがクライエントの為になるということです。そういう観点から読み直すと、これは法律の本でありながら、きわめて臨床的な示唆に富む本であるとも言えます。
最後の方の総論の章では、法律と倫理の違いや、外から押し付けられる倫理と各カウンセラーの内面から沸き起こる倫理との違いなども説明されていました。それを読みつつ、日本臨床心理士会の倫理綱領を読むと、これらは守らなければ罰せられるという意味ではなく、これらを守ることはクライエントの利益に直結することばかりが書かれているように思いました。すなわち、倫理綱領は倫理についてのものではなく、きわめて臨床的な技法論だったのかもしれません。
本書はQ&A方式で、現実的にありえるケースを素材にして多角的に論じられています。また、本書の対象者が法律の専門家ではないということを念頭において、平易な文章で書かれています。ただ、それでも法律の専門用語は出てくるし、法学的な回りくどい言い回しなどがあり、何度か読み直さないと理解し難いところはありますが。
本書には34個のQ&Aがあり、例えば、実践的に守秘義務はどういう時に守り、どういう時に解除されるのか、どういう時に賠償責任を負い、どういう時には負わなくて良いのかなど詳しくかつ具体的に書かれているので大変参考になると思います。
そして、本書を読んで思うのは、当初はインフォームドコンセントをすることや、契約は書面に残すことなどは、法的な争いにならないため、もしくは法的争いになった時に勝つ為だと思っていたところはあります。しかし、これらを突き詰めていくと、そのようなことをするのは単に法的争いに勝つ為ではなく、そうすることがクライエントの福祉と利益につながるものであることが分かります。例えば、プライバシーを守らないと訴訟を起こされるという考えだけではなく、プライバシーを守ることがクライエントの為になるということです。そういう観点から読み直すと、これは法律の本でありながら、きわめて臨床的な示唆に富む本であるとも言えます。
最後の方の総論の章では、法律と倫理の違いや、外から押し付けられる倫理と各カウンセラーの内面から沸き起こる倫理との違いなども説明されていました。それを読みつつ、日本臨床心理士会の倫理綱領を読むと、これらは守らなければ罰せられるという意味ではなく、これらを守ることはクライエントの利益に直結することばかりが書かれているように思いました。すなわち、倫理綱領は倫理についてのものではなく、きわめて臨床的な技法論だったのかもしれません。
メラニー・クライン(著) 「早期不安に照らしてみたエディプス・コンプレックス」 1945年
メラニー・クライン著作集3巻 ”愛、罪そして償い” 誠信書房 pp157-218
メラニー・クライン著作集3巻 ”愛、罪そして償い” 誠信書房 pp157-218
精神分析においてエディプス・コンプレックスの概念は重要で、学派や分析家によってその定義や用い方に多少の違いはあるが、いずれも臨床の中心に置かれることが多いようである。クラインも例外ではなく、エディプス・コンプレックスをどのように位置づけるのかによって理論を構築していっているのである。
本論文では長い二つの症例を用いて論を構成している。ひとつはリチャード10歳であり、他の子どもに対して怖がり学校に行けず、ひきこもりを呈しているようである。また抑うつも強かったよう。ちなみに、リチャードの症例は児童分析の記録:メラニークライン著作集6巻と7巻で詳細に症例を提示しているようである。もうひとつはリタ2歳9ヶ月であり、不安・こらえ性のなさ・強迫・いたずら・気まぐれ食い・食欲不振・急に泣く、といった症状があった。リタについてはクライン著作集2巻:児童の精神分析にも掲載されている。
これらの二つの症例からクラインは、フロイトとはまた違ったエディプス・コンプレックスを描き出している。フロイトのエディプス・コンプレックスでは、子どもはそれまで母親に対して向けていた愛情が父親の出現により禁止され、去勢不安を感じるようになる。その為、母親への愛情を撤去し、父親に同一化することにより不安を防衛する。その過程でエディプス・コンプレックスを克服し、結果的にエディプス・コンプレックスの名残として超自我を形成するというものである。反面、クラインのエディプス・コンプレックスでは、超自我はエディプス・コンプレックスの始まり以前から迫害的なものとして存在しており、それと同時に良いおっぱいと悪いおっぱいが両極端に分けられている状況である。それがエディプス・コンプレックスを通過することにより、超自我は適度なものへと変わり、良いおっぱいと悪いおっぱいが統合され、全体対象へと向かうようになるのである。もちろん、両者とも男児と女児では多少違うプロセスを経るようではあるが。
クラインは初期には、「フロイトとの相違はなく、継承している」とフロイトに忠実であろうとしていたが、この論文ではフロイトに追従する文言はそれほどなく、独自の路線をひた走っていっている印象がある。本論文は1945年に書かれており、フロイトが死去してから6年が経過しているので、その影響もあるのかもしれない。
エディプス・コンプレックスは100年前の古い理論であるのではなく、現代の臨床でも様々な局面において参考になる有力な武器であると私は思っている。というのも、もちろん症例によってその体験することや個性はさまざまで一つとして同じものはないのは当たり前のことである。しかし、そのストーリーをよくよく読み解いていくと、エディプス・コンプレックスにまつわる何かが見えてくるのである。言いかえるとエディプス・コンプレックスという理論を通すことによって、その人の個性が見えてくるのだ。このエディプス・コンプレックスをどのように体験し、どのように乗り越え、また挫折しているのかを見ることによって、その症例のことが見えてくるのだ。たとえプレエディパルの時期にとどまっている症例でも、エディプス・コンプレックスの不安が大きく退行しているのか、そもそもエディプス・コンプレックスに到達すらしてないのかでその理解は変わってくる。
このようにエディプス・コンプレックスは臨床をする上で大変参考になるのであるが、それはエディプス・コンプレックスを盲信することではない。エディプス・コンプレックスを参照しつつ、それにどうしても当てはまらない時、それでは理解できない時、そこに気づくことが重要である。さまざまな素材を勝手に取捨選択し、無理やりにエディプス・コンプレックスに当てはめようとするのではなく、どうして違うのだろう?何が別なのだろう?ということに気づき、そこを考えていくことも大変重要なのである。いうなれば、素材の可能性に開かれた態度を持つことが臨床家としての重要な姿勢なのだと思う。
さらに言えば、これらのことが患者からそのまま言葉として表現されることはあまりなく、たいていは行動や振る舞いといった形で、そして転移を通して表現されるのである。その為、患者の言葉の連想を聞くことも大切であるが、それ以上に雰囲気や行為、治療者が感じる情緒的体験に注意を向けることが大切なのである。
本論文では長い二つの症例を用いて論を構成している。ひとつはリチャード10歳であり、他の子どもに対して怖がり学校に行けず、ひきこもりを呈しているようである。また抑うつも強かったよう。ちなみに、リチャードの症例は児童分析の記録:メラニークライン著作集6巻と7巻で詳細に症例を提示しているようである。もうひとつはリタ2歳9ヶ月であり、不安・こらえ性のなさ・強迫・いたずら・気まぐれ食い・食欲不振・急に泣く、といった症状があった。リタについてはクライン著作集2巻:児童の精神分析にも掲載されている。
これらの二つの症例からクラインは、フロイトとはまた違ったエディプス・コンプレックスを描き出している。フロイトのエディプス・コンプレックスでは、子どもはそれまで母親に対して向けていた愛情が父親の出現により禁止され、去勢不安を感じるようになる。その為、母親への愛情を撤去し、父親に同一化することにより不安を防衛する。その過程でエディプス・コンプレックスを克服し、結果的にエディプス・コンプレックスの名残として超自我を形成するというものである。反面、クラインのエディプス・コンプレックスでは、超自我はエディプス・コンプレックスの始まり以前から迫害的なものとして存在しており、それと同時に良いおっぱいと悪いおっぱいが両極端に分けられている状況である。それがエディプス・コンプレックスを通過することにより、超自我は適度なものへと変わり、良いおっぱいと悪いおっぱいが統合され、全体対象へと向かうようになるのである。もちろん、両者とも男児と女児では多少違うプロセスを経るようではあるが。
クラインは初期には、「フロイトとの相違はなく、継承している」とフロイトに忠実であろうとしていたが、この論文ではフロイトに追従する文言はそれほどなく、独自の路線をひた走っていっている印象がある。本論文は1945年に書かれており、フロイトが死去してから6年が経過しているので、その影響もあるのかもしれない。
エディプス・コンプレックスは100年前の古い理論であるのではなく、現代の臨床でも様々な局面において参考になる有力な武器であると私は思っている。というのも、もちろん症例によってその体験することや個性はさまざまで一つとして同じものはないのは当たり前のことである。しかし、そのストーリーをよくよく読み解いていくと、エディプス・コンプレックスにまつわる何かが見えてくるのである。言いかえるとエディプス・コンプレックスという理論を通すことによって、その人の個性が見えてくるのだ。このエディプス・コンプレックスをどのように体験し、どのように乗り越え、また挫折しているのかを見ることによって、その症例のことが見えてくるのだ。たとえプレエディパルの時期にとどまっている症例でも、エディプス・コンプレックスの不安が大きく退行しているのか、そもそもエディプス・コンプレックスに到達すらしてないのかでその理解は変わってくる。
このようにエディプス・コンプレックスは臨床をする上で大変参考になるのであるが、それはエディプス・コンプレックスを盲信することではない。エディプス・コンプレックスを参照しつつ、それにどうしても当てはまらない時、それでは理解できない時、そこに気づくことが重要である。さまざまな素材を勝手に取捨選択し、無理やりにエディプス・コンプレックスに当てはめようとするのではなく、どうして違うのだろう?何が別なのだろう?ということに気づき、そこを考えていくことも大変重要なのである。いうなれば、素材の可能性に開かれた態度を持つことが臨床家としての重要な姿勢なのだと思う。
さらに言えば、これらのことが患者からそのまま言葉として表現されることはあまりなく、たいていは行動や振る舞いといった形で、そして転移を通して表現されるのである。その為、患者の言葉の連想を聞くことも大切であるが、それ以上に雰囲気や行為、治療者が感じる情緒的体験に注意を向けることが大切なのである。
成人の発達障害の精神分析について。
最近は発達障害の援助について色々と取り沙汰されることが多く、そのほとんどが行動療法的な養育やTEACCH、又はペアレント・トレーニングなどである。一部、イギリスのタビストゥックにおけるタスティンの流れを汲む自閉症の精神分析的アプローチなどがあるぐらいであるが、これらはほとんど乳幼児や子どもが中心である。成人の発達障害の精神分析についてはほとんど聞いたことがない。
今回はその成人発達障害の精神分析について少し経験したことがあるので、少しだけ思ったことを書く。
発達障害といっても様々なタイプがあるし、健常者との地続きからなるスペクトラムを形成しているところもあるので、簡単に発達障害と位置づけることすら難しいとは思うが、ここでは一応のところ、アスペルガータイプで、比較的コミュニケーション能力が高く、それなりの適応をしている人を念頭にしておく。
彼らは空想の世界に遊び、集中したら周りが見えなくなるぐらいまで没頭し、その特徴のためにしばしば特異な才能を見せることもある。しかし、ひとたび他者との情緒的な関係に触れると、精神病的な不安に襲われ、パニックになることもある。このような特徴は精神分析セッションでも同様に起こり、まるで治療者がいないかのように独自の世界を延々と語り続ける。治療者の介入には一応は耳を傾け、ある程度のレスポンスはするが、すぐに自分の世界に引きこもっていく。このナルシスティックな状態・特徴のため、治療者はしばしば無力感にも駆られ、治療者も患者同様に自分自身の内的世界に引きこもってしまう。特には白昼夢を見たり、時には睡魔に襲われたりもする。
このような転移/逆転移関係の中で不毛と思われるセッションが延々と続く、それを共謀と捉えることもできるであろうが、しかし、後から振り返るとその不毛とも思える関係が実は患者を守り、患者の世界を保証し、共感していると言えなくもないのである。そして、その不毛と思われる関係を基盤にした解釈によって隠された情緒、育ち損ねてきた情緒に触れることができる。その解釈によって一時的には混乱するが、そこに人間関係のリアリティをもった感覚を体験することができ、ある種の満足が得られたりもする。多少の荒療治にも思えたりするのだが。
しかし、こういうことを書くと発達障害に精神分析をするとは何事だ!エビデンスはあるのか!などとお叱りを受けそうであるが、彼らのニーズをある程度は把握し、そこに自己理解というニーズがあるのであれば、精神分析が役立つこともあると考える。逆に発達障害だから、一様に行動療法・TEACCH・ペアレントトレーニングとスライド的に施行することのほうが彼らのニーズを把握していないのではないかと思ったりもする。
今回はその成人発達障害の精神分析について少し経験したことがあるので、少しだけ思ったことを書く。
発達障害といっても様々なタイプがあるし、健常者との地続きからなるスペクトラムを形成しているところもあるので、簡単に発達障害と位置づけることすら難しいとは思うが、ここでは一応のところ、アスペルガータイプで、比較的コミュニケーション能力が高く、それなりの適応をしている人を念頭にしておく。
彼らは空想の世界に遊び、集中したら周りが見えなくなるぐらいまで没頭し、その特徴のためにしばしば特異な才能を見せることもある。しかし、ひとたび他者との情緒的な関係に触れると、精神病的な不安に襲われ、パニックになることもある。このような特徴は精神分析セッションでも同様に起こり、まるで治療者がいないかのように独自の世界を延々と語り続ける。治療者の介入には一応は耳を傾け、ある程度のレスポンスはするが、すぐに自分の世界に引きこもっていく。このナルシスティックな状態・特徴のため、治療者はしばしば無力感にも駆られ、治療者も患者同様に自分自身の内的世界に引きこもってしまう。特には白昼夢を見たり、時には睡魔に襲われたりもする。
このような転移/逆転移関係の中で不毛と思われるセッションが延々と続く、それを共謀と捉えることもできるであろうが、しかし、後から振り返るとその不毛とも思える関係が実は患者を守り、患者の世界を保証し、共感していると言えなくもないのである。そして、その不毛と思われる関係を基盤にした解釈によって隠された情緒、育ち損ねてきた情緒に触れることができる。その解釈によって一時的には混乱するが、そこに人間関係のリアリティをもった感覚を体験することができ、ある種の満足が得られたりもする。多少の荒療治にも思えたりするのだが。
しかし、こういうことを書くと発達障害に精神分析をするとは何事だ!エビデンスはあるのか!などとお叱りを受けそうであるが、彼らのニーズをある程度は把握し、そこに自己理解というニーズがあるのであれば、精神分析が役立つこともあると考える。逆に発達障害だから、一様に行動療法・TEACCH・ペアレントトレーニングとスライド的に施行することのほうが彼らのニーズを把握していないのではないかと思ったりもする。
メラニー・クライン(著) 「喪とその躁うつ状態との関係」 1940年
メラニー・クライン著作集3巻 ”愛、罪そして償い” 誠信書房 pp123-156
メラニー・クライン著作集3巻 ”愛、罪そして償い” 誠信書房 pp123-156
これは、1935年の「躁うつ状態の心因論に関する寄与」の続編と位置付けられそうな論文である。抑うつポジションという概念が1935年に提出され、その理論の精微化を行っている。抑うつポジションは、妄想的な恐怖とサディズムの攻防により、愛する対象を破壊してしまったことを償うことによって構成されるのであり、その過程には投影と取り入れが密接に関わっているのである。そしてこの抑うつポジションを健康に乗り越えられない場合、躁的防衛を発動することになる。
この論文によって抑うつポジションの概念化はある程度、整備されてきており、さらにパラノイアや精神病、妄想などといった今後の妄想分裂ポジションとして精微化されていく様々な現象が取り上げられている。この著作集2巻の他の論文にも言えることであるが、クラインは当初は攻撃性・破壊性・サディズムといったものを中心に取り上げていたが、徐々に愛情や慈しみ、悲しみ、償いといった「愛」のテーマも加味されてきているようになってきているところが一番の特徴である。
臨床でも、陰性転移を扱うことはとても大事であるが、それと同時に陽性転移も見定めておくことが求められる。陰性転移と陽性転移は表裏一体なのである。もっとも現代クライン学派では、陰性/陽性といった分類はせず、一括して「転移」と呼んでいるようであるが。
この論文によって抑うつポジションの概念化はある程度、整備されてきており、さらにパラノイアや精神病、妄想などといった今後の妄想分裂ポジションとして精微化されていく様々な現象が取り上げられている。この著作集2巻の他の論文にも言えることであるが、クラインは当初は攻撃性・破壊性・サディズムといったものを中心に取り上げていたが、徐々に愛情や慈しみ、悲しみ、償いといった「愛」のテーマも加味されてきているようになってきているところが一番の特徴である。
臨床でも、陰性転移を扱うことはとても大事であるが、それと同時に陽性転移も見定めておくことが求められる。陰性転移と陽性転移は表裏一体なのである。もっとも現代クライン学派では、陰性/陽性といった分類はせず、一括して「転移」と呼んでいるようであるが。
日本が日本でなくなる政策を民主党は数多く行おうとしています。
●外国人参政権
日本人の主権がなくなります。日本人の利益の為の政治ではなく外国人の利益の為の政治になります。
●沖縄ビジョン
沖縄を中国に売り渡します。
●人権侵害法(人権擁護法)
令状や逮捕状なく、逮捕・拘留されてしまう言論弾圧の為の法案です。
●移民1000万人
外国人犯罪は日本人犯罪の数倍〜10数倍です。特に強盗・強姦といった凶悪犯罪や、麻薬犯罪が増え、日本の治安は悪化します。
●経済政策
現在進行形で行われている景気対策が巻き戻され、戻りつつある景気が再び悪化します。
●慰安婦問題
既に解決済みの慰安婦問題が蒸し返され、不必要な支出が行われます。
●自虐史観教育
日教組による反日教育が行われ、子ども達が日本に誇りが持てなくなります。さらに全国一斉テストなどが廃止され、日本の児童の学力は低下します。
●外交
中国・韓国・北朝鮮に対して、奴隷外交・隷属外交を行い、不必要な財政援助がなされたり、内政干渉をモロに受けたりします。
●汚職
鳩山氏の故人献金問題、小沢氏の西松問題はまだ決着していません。
●在日特権の強化
ただでさえ在日の方に対する補償が日本人をはるかに上回っている中で、さらに補償が強化されます。すなわち、その負担は国民が背負うということです。
----------
色々と個人個人で考え方は違うとは思いますが、民主党のこのような公にされない政策、裏の政策には日本を日本で無くする政策に満ちています。鳩山氏は「日本列島は日本人だけのものじゃない」といった真意がこれらの政策のあちこちに散見されます。
政治に無関心の方は多いと思います。年間80兆円の国家予算を4年分を使う政党が今回の選挙で決まります。すなわち320兆円の莫大な金額です。有権者1億人としたら、
1票の価値は320万円です
特別会計を入れるなら4年間で800兆円ですので、
1票800万円
になります。
この1票の重みを感じてもらい、たんに雰囲気や流れに任せて民主党に何も考えずに投票するのではなく、中身をしっかりと見て、投票を行ってください。
よろしくお願いします。
日本人の主権がなくなります。日本人の利益の為の政治ではなく外国人の利益の為の政治になります。
●沖縄ビジョン
沖縄を中国に売り渡します。
●人権侵害法(人権擁護法)
令状や逮捕状なく、逮捕・拘留されてしまう言論弾圧の為の法案です。
●移民1000万人
外国人犯罪は日本人犯罪の数倍〜10数倍です。特に強盗・強姦といった凶悪犯罪や、麻薬犯罪が増え、日本の治安は悪化します。
●経済政策
現在進行形で行われている景気対策が巻き戻され、戻りつつある景気が再び悪化します。
●慰安婦問題
既に解決済みの慰安婦問題が蒸し返され、不必要な支出が行われます。
●自虐史観教育
日教組による反日教育が行われ、子ども達が日本に誇りが持てなくなります。さらに全国一斉テストなどが廃止され、日本の児童の学力は低下します。
●外交
中国・韓国・北朝鮮に対して、奴隷外交・隷属外交を行い、不必要な財政援助がなされたり、内政干渉をモロに受けたりします。
●汚職
鳩山氏の故人献金問題、小沢氏の西松問題はまだ決着していません。
●在日特権の強化
ただでさえ在日の方に対する補償が日本人をはるかに上回っている中で、さらに補償が強化されます。すなわち、その負担は国民が背負うということです。
----------
色々と個人個人で考え方は違うとは思いますが、民主党のこのような公にされない政策、裏の政策には日本を日本で無くする政策に満ちています。鳩山氏は「日本列島は日本人だけのものじゃない」といった真意がこれらの政策のあちこちに散見されます。
政治に無関心の方は多いと思います。年間80兆円の国家予算を4年分を使う政党が今回の選挙で決まります。すなわち320兆円の莫大な金額です。有権者1億人としたら、
1票の価値は320万円です
特別会計を入れるなら4年間で800兆円ですので、
1票800万円
になります。
この1票の重みを感じてもらい、たんに雰囲気や流れに任せて民主党に何も考えずに投票するのではなく、中身をしっかりと見て、投票を行ってください。
よろしくお願いします。
外国人参政権から国家主権の委譲されるまで。
外国人参政権とは簡単に言うと、日本に永住している外国人に投票・立候補など政治に参加する権利を与えることです。
この法案が可決された場合、日本は日本人のものではなくなってしまいます。すなわち、日本の政治なのに他国が口を出せるようになるからです。いわゆる内政干渉ですね。特に中国や韓国はことあるごとに日本に内政干渉をしています。そしてこれから続くでしょう。
永住外国人といっても、さまざまな国籍がありますが、法務省が把握している永住外国人は平成20年の段階で約221万人です。そして内訳は以下の通りです。
平成20年末現在における外国人登録者統計についてより
半分以上が韓国・朝鮮・中国で占められています。また、不法滞在者は30万人とも言われているようです。その大半は韓国や中国です。
ものすごい数ですね。そしてこれらの方々が組織票でもって立候補し、その地域で当選すると、確実に日本人の為の政治や保障は行われず、在日の為の政治や保障が行われるでしょう。ただでさえ、在日韓国・中国の方へは生活保護の優遇や税金・保険の免除などといった優遇措置が行われており、そこに日々の血税が大量に投入されています。
そうなると、まさに日本であって日本でなくなります。
民主党党首の鳩山氏は以下のように発言しています。
「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」
上記動画の3分18秒あたりでこの言葉をはっきりと言っています。
外国人参政権だけで日本が日本でなくなる可能性は高いのですが、さらに民主党は「沖縄ビジョン」「移民1000万人」という計画をしています。
詳しくは調べてもらったら良いのですが、簡単に言うと、移民をたくさん入れて外国人の割合を増やし、まずは沖縄から中国に併合させようということです。
そして、民主党の最終目的というべきものは、
「国家主権の移譲や主権の共有」
です。
すなわち、国とは「領土・国民・主権」の3つからなり、いずれか一つでもなくなるとそれは国としては成立しなくなります。そのうちの一つである主権を日本国民から取り上げ、他国に委譲するというのです。
ひらたくいうと、日本がウイグルやチベットと同じようになるということです。日本の資産は搾取され、国民は弾圧されます。そしてそれは世界には報道されず、闇の中に葬り去られ、世界の誰も助けてくれません。思想の自由や言論の自由などはあろうはずがありません。
コードギアスの世界ですね。コードギアスでは日本は大国ブリタニアに占領され、日本は植民地化され、日本人のアイデンティティは認められず、イレブンという記号を与えられ、隷属国として生きるしかなくなります。そこでは弾圧や差別が横行し、日本人は日本人でなくなってしまっています。
このようなコードギアスの世界が空想や想像の産物ではなくなってしまいます。
民主党の、このような外国人参政権・沖縄ビジョン・移民・国家主権の委譲については、
マニフェストには記載していません
民主党のマニフェストに書かれているのは、「国民の生活を第一に考える」という甘い言葉であり、そこには、消費税は上げない・子ども手当てをたくさん出す・ムダ使いをしない、といった有権者が喜びそうなことだけを書いているプロパガンダです。単なる選挙のために作られた票を集めるだけの宣伝文句です。
そういうのを無批判にマスコミは良いものとして取り上げ、「政権交代」が国民の生活の向上に無条件に繋がるといった報道を繰り返しています。それを鵜呑みにした有権者は民主党に操られるかのように投票することになります。
しかし、そのような甘い言葉に誘われて民主党に投票し、政権を取ってしまったら最後、国民の生活を第一にした政策が行われる可能性は少なく、国家主権の委譲に向けて粛々と事が進んでいきます。というのも、民主党のバックには中国や韓国、在日がついています。そして、それらの為の政治を行うからです。
民主党がマスコミで言っていることや演説で言っていることは、「政権交代」「国民の生活第一」「無駄遣いを無くす」といったことだけの中身のない主張です。民主党や鳩山氏の口で言っていることだけを信じるのではなくて、これまでにしようとしてきた政策を見て、どういう政治を本当にしようとしているのかについて目を向けてみてください。
そうすると、マスコミで言われているような民主党はなく、まさに日本を解体することのためだけに活動をしていることが分かると思います。
この法案が可決された場合、日本は日本人のものではなくなってしまいます。すなわち、日本の政治なのに他国が口を出せるようになるからです。いわゆる内政干渉ですね。特に中国や韓国はことあるごとに日本に内政干渉をしています。そしてこれから続くでしょう。
永住外国人といっても、さまざまな国籍がありますが、法務省が把握している永住外国人は平成20年の段階で約221万人です。そして内訳は以下の通りです。
中国籍29.6%(約65万人)
朝鮮韓国籍26.6%(約59万人)
ブラジル14.1%
フイリピン9.5
ペルー2.7%
アメリカ2.4%
その他15.2%
平成20年末現在における外国人登録者統計についてより
半分以上が韓国・朝鮮・中国で占められています。また、不法滞在者は30万人とも言われているようです。その大半は韓国や中国です。
ものすごい数ですね。そしてこれらの方々が組織票でもって立候補し、その地域で当選すると、確実に日本人の為の政治や保障は行われず、在日の為の政治や保障が行われるでしょう。ただでさえ、在日韓国・中国の方へは生活保護の優遇や税金・保険の免除などといった優遇措置が行われており、そこに日々の血税が大量に投入されています。
そうなると、まさに日本であって日本でなくなります。
民主党党首の鳩山氏は以下のように発言しています。
「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」
上記動画の3分18秒あたりでこの言葉をはっきりと言っています。
外国人参政権だけで日本が日本でなくなる可能性は高いのですが、さらに民主党は「沖縄ビジョン」「移民1000万人」という計画をしています。
詳しくは調べてもらったら良いのですが、簡単に言うと、移民をたくさん入れて外国人の割合を増やし、まずは沖縄から中国に併合させようということです。
そして、民主党の最終目的というべきものは、
「国家主権の移譲や主権の共有」
です。
すなわち、国とは「領土・国民・主権」の3つからなり、いずれか一つでもなくなるとそれは国としては成立しなくなります。そのうちの一つである主権を日本国民から取り上げ、他国に委譲するというのです。
ひらたくいうと、日本がウイグルやチベットと同じようになるということです。日本の資産は搾取され、国民は弾圧されます。そしてそれは世界には報道されず、闇の中に葬り去られ、世界の誰も助けてくれません。思想の自由や言論の自由などはあろうはずがありません。
コードギアスの世界ですね。コードギアスでは日本は大国ブリタニアに占領され、日本は植民地化され、日本人のアイデンティティは認められず、イレブンという記号を与えられ、隷属国として生きるしかなくなります。そこでは弾圧や差別が横行し、日本人は日本人でなくなってしまっています。
このようなコードギアスの世界が空想や想像の産物ではなくなってしまいます。
民主党の、このような外国人参政権・沖縄ビジョン・移民・国家主権の委譲については、
マニフェストには記載していません
民主党のマニフェストに書かれているのは、「国民の生活を第一に考える」という甘い言葉であり、そこには、消費税は上げない・子ども手当てをたくさん出す・ムダ使いをしない、といった有権者が喜びそうなことだけを書いているプロパガンダです。単なる選挙のために作られた票を集めるだけの宣伝文句です。
そういうのを無批判にマスコミは良いものとして取り上げ、「政権交代」が国民の生活の向上に無条件に繋がるといった報道を繰り返しています。それを鵜呑みにした有権者は民主党に操られるかのように投票することになります。
しかし、そのような甘い言葉に誘われて民主党に投票し、政権を取ってしまったら最後、国民の生活を第一にした政策が行われる可能性は少なく、国家主権の委譲に向けて粛々と事が進んでいきます。というのも、民主党のバックには中国や韓国、在日がついています。そして、それらの為の政治を行うからです。
民主党がマスコミで言っていることや演説で言っていることは、「政権交代」「国民の生活第一」「無駄遣いを無くす」といったことだけの中身のない主張です。民主党や鳩山氏の口で言っていることだけを信じるのではなくて、これまでにしようとしてきた政策を見て、どういう政治を本当にしようとしているのかについて目を向けてみてください。
そうすると、マスコミで言われているような民主党はなく、まさに日本を解体することのためだけに活動をしていることが分かると思います。
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